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スコットランドには片面だけ黒い羊がいる

その羊はスコティッシュ・ハーフブラックと呼ばれる品種で、左右どちらかの毛が白く、もう片方が黒い。マレーバクを横向きにしたような珍妙な色をしている。

寒暖差の激しい山岳地帯で飼育されており、寒いときは黒い面を太陽に向け、暑いときは白い面を向けている。このため遠くからはあたかも一色の羊であるかのように見える。近寄って見るとその身体が背骨のラインに沿ってきれいに二分されていることがわかる。

羊毛をとるにも不便であるから、経済動物としての価値は低く、スコットランドと北欧の一部地域で伝統的に飼育されるのみであるが、その独特な風貌ふうぼうからシェイクスピア『オセロー』にも登場し、近年では同地域の観光資源にもなっている。また米国の黒人差別撤廃運動において、白人社会との融和のシンボルとして取り上げられることもある。

だが、この少々変わった羊たちが、歴史上の科学者たちを魅了してきたことはあまり知られていない。本稿ではこの奇妙な羊と、人類の偉大な知性との関わりを概観する。

「火星の発見者」の名を、あなたは知っているだろうか。

答えられなくても問題ない。それが理科や歴史のテストで出題されることは決してない。火星や金星、木星といった星々が特別であることは、人類が文字を持つ以前から知られていたからだ。おそらくその「発見者」は、我々が考えるような名前は持っていない。言語すら持たなかったかもしれない。

夜空にまたたく幾千もの星々の中で、これら数個の星だけが、他の恒星と違った動きをする。古代ギリシア人はそれを「惑う星プラネテス」と呼び、占星術師たちはその奇妙な運動を、人間の運命を左右するものだと考えた。

17世紀に望遠鏡が発明され、肉眼でとらえられない星が星図に載るようになると、「古代人たちの目を逃れた新惑星が見つかるかもしれない」という期待を胸に、人々は夜空にレンズを向けた。

とはいえ、膨大な星々からわずかな運動の違いを見分けるのは、コンピュータのない時代においては容易なことではない。実際に第7惑星・天王星が発見されたのは、18世紀も暮れのことであった。

さて、この天王星を半世紀にわたって観測していると、ある奇妙な事実が明らかになった。その公転軌道が、ニュートンの方程式によって導かれた軌道からわずかにずれているのだ。

当時はまだニュートンから1世紀も経っていない時代だ。天王星ほど遠い場所とあっては、もはや『プリンキピア』に書かれた法則が律する領域ではない、と考える者も少なくなかった。

そんな中、英国の数学者ジョン・クーチ・アダムズは、天王星の公転軌道の歪みが、さらに遠方の惑星の引力による摂動せつどうであるとし、その具体的な軌道までを算出してみせた。

ジョン・クーチ・アダムズ 1819-1892

ところが、この発表を聞いた天文学界の反応はかんばしくなかった。

彗星にせよ小惑星にせよ、新天体とは望遠鏡の中に見出されるものであり、数式の上に浮かびあがるものではない。そうした思想が天文学では支配的だったからである。

「摂動を利用して未知の惑星を予見する」というアイデアは、現代では系外惑星(太陽以外の恒星を周回する惑星)の発見手段としてごく一般的に用いられている。だが当時としてはきわめて奇抜であり、数学者の空想としか思われぬものであった。アダムズの発表は学会ではほとんど黙殺された。

その真価を理解した数少ない天文学者が、フランス・パリの天文台長ユルバン・ルヴェリエであった。

ユルバン・ルヴェリエ 1811-1877

というのは、ルヴェリエは天文学者であると同時に数学者であり、アダムズとほぼ同じ計算で、未知の第8惑星の軌道を算出していたからである。

書簡でアダムズの存在を知ったルヴェリエは、すぐさまドーヴァー海峡を渡り、彼のもとに向かった。

自身の研究について深い議論を重ねたいと思ったのか、はたまた先取権を主張しようとしたのかは史料に残されていない。だが、間の悪いことにアダムズはイングランドを出発し、開通したばかりの蒸気機関車に乗り、スコットランドのエディンバラへと向かうところであった。

急ぎ駆けつけたルヴェリエは、ちょうど駅から汽車に乗り込むアダムズを見つけ、そのまま切符も買わずに車中に乗り込んでしまった。

アダムズとルヴェリエは第8惑星についてさまざまな討議を交わす中、列車は蒸気を吐きながら北へ北へと向かい、やがてスコットランドへと到達した。英王立協会の外国人会員でもあったルヴェリエにとって、ロンドンやオクスフォードは慣れ親しんだ土地であったが、スコットランドへの訪問は生涯でこの一度きりである。

『海王星の発見』ダリ・イーツー美術館収蔵

アダムズの日記によると、このときルヴェリエは車窓からひとまとまりの羊の群れを認め、

「なんと、スコットランドの羊はみな黒いのか」

と発言したという。線路は群れの南側を通っており、羊たちはみな黒い面だけを列車へと向けていたためだ。むろん英国人のアダムズは、この地域で飼育されるスコティッシュ・ハーフブラック種の存在を知っていたため、

「いや、あれは片面だけが黒い羊だ」

と答え、ルヴェリエを赤面させた。このエピソードはのちに王立協会にも伝わり、幾度かの変遷を経て、以下のようなジョークとなった。

天文学者と物理学者と数学者が汽車に乗ってスコットランドを訪れると、車窓から一頭の黒い羊が見えた。
天文学者は言った。「これは驚いた、スコットランドの羊はみな黒いのか」
物理学者は言った。「それは違う。スコットランドには黒い羊が少なくとも一頭いるということだ」
数学者は言った。「それは違う。スコットランドには少なくとも片面が黒く見える羊が、少なくとも一頭いるということだ」

これは「天文学者はわずかなサンプルから広大な宇宙像を描くが、数学者は厳密に証明されたことしか信じない」という姿勢を描写している。ジョークにはさまざまなバージョンがあり、オチに生物学者の「あれは山羊やぎだ」というコメントが追加されることもある。

ともかく、パリ天文台長という権威を背負ったルヴェリエが「天王星に摂動を与える未知の惑星」にお墨付きを与えたことによって学界は色めきだった。一年後、ふたりの予言した位置に実際に天体を見いだしたのが、ドイツの天文学者ヨハン・ゴットフリート・ガレである。

ヨハン・ゴットフリート・ガレ 1812-1910

このため「海王星の発見者」としては、アダムズ、ルヴェリエ、ガレの三人の名が挙げられる。

第8惑星の存在が正式に認められた頃、かつて蒸気機関車の客室で「スコットランドの羊はみな黒い」と発言したルヴェリエの目は、太陽系の内側に向いていた。

このころ天文学会の注目を集めていたのは、もっとも太陽に近い惑星、水星であった。観測精度の向上により、水星の公転軌道に理論値からのずれが存在し、それが金星など既知天体の摂動では説明できない、ということが明らかになってきていたのだ。

この事実を知ったルヴェリエは、

「水星のさらに内側に、もうひとつ未知の惑星があり、水星軌道に摂動を与えている」

と推測し、その惑星に「ヴァルカン」という名前をつけた。

同様の予言をする者は過去にもあったが、なにしろ今回は海王星発見という実績のあるルヴェリエである。誰もがヴァルカン発見者の座を争い、多くの天文学者が望遠鏡を太陽に向け、山のような「ヴァルカン発見」の報告が天文学会に届けられた。中にはその功績を認められ、ナポレオン三世から勲章を授与された者もいる。

だが、それらはすべて再現性のない誤報であり、ほとんどが太陽黒点を誤認したものであった。ひどいものになると望遠鏡のレンズについたゴミを白々しく「新惑星」と発表する者までいた。

結局ヴァルカンは発見されないまま、ルヴェリエは66歳で死没する。モンパルナス墓地にある彼の墓には、
「ペンの先に新しい星を発見した」
という銘が刻まれている。この「星」(astre)は単数形である。彼は海王星の発見者であるが、ヴァルカンの発見者にはなれなかった。

その後20世紀に入り、アインシュタインが一般相対性理論を発表すると、水星軌道のずれは太陽引力のみで説明できる、と明らかになった。幻の惑星ヴァルカンは、幻として消えることとなった。

羊の片面を見て「黒い羊だ」と断じたルヴェリエの、まことに皮肉な後日談である。太陽系の外側で海王星を見出した彼は、内側に同じ道理が適用できると最後まで信じていたのである。

いずれにせよこのルヴェリエの車中の発言が、スコティッシュ・ハーフブラックという温柔な田舎羊を、学界といういささか屈折した社交界へデビューさせた瞬間であった。

本稿は「有名な科学ジョークの成立過程を勝手に考える」という趣旨で執筆したフィクションで、スコティッシュ・ハーフブラックは架空の品種です。

海王星発見の経緯、および惑星ヴァルカンのくだりはおおむね史実に基づいていますが、ルヴェリエとアダムズが汽車で直接対話したというくだりは筆者の創作です。

以下「ロナルド・フィッシャー編」「エルヴィン・シュレディンガー編」「ビクトリアス・ポッター編」「アラン・チューリング編」「南部陽一郎編」などを予定しておりましたが、書く暇がないのでここで筆を置きます。


■本記事の参考文献


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