ゲノムデータ送信によるデジタル宇宙移民は可能か?
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はじめに:生命とデジタルデータ
昨年の暮れに翻訳した mRNA ワクチンの技術的な解説記事 は非常に大きな反響があった。特にIT関係の人たちからは、生命が思った以上にコンピュータに近いくて驚いた、という声が寄せられた。
ところで、mRNA ワクチンは従来の不活化ワクチンと異なり、ウイルスの実物を使用せず、ゲノムデータのみから製造が可能という特徴がある。
つまり、感染力の強い変異株が蔓延する前に、存在しないウイルスへのワクチンを先回りで用意することも理論的は可能だ(治験が困難だが)。また、よりSF的な話としては、データ送信によってワクチンを他の惑星に光速で輸送することもできる。
もし近い将来(イーロン・マスクが主張するように)人類が火星に住むようになり、地球で新型ウイルスが流行したとしよう。地球と火星の間には定期船(片道数ヶ月)が往来しているため、ウイルスが火星にも蔓延する危険がある。もしかしたら既に出発した船に、新型ウイルスの感染者が搭乗しているかもしれない。
こういう場合でも、地球上で開発した mRNA ワクチンのデータを火星に送信し、現地でワクチンを製造・接種すれば、定期船が火星に到着する頃にはすでに集団免疫ができている、という具合だ。いくらウイルスの拡散が速くても、物質である以上は光速に勝てない。
という話をされると、おそらくSF愛好家はこんなことを考えるだろう。ワクチンのみならず生物としての人間そのものをデジタルデータとして輸送可能なのではないだろうか、と。現代のロケット技術では届きそうにない恒星間航行も、データの体であれば可能なのでは?
そこでひとつ「デジタル宇宙移民」と題したクイズを考えてみよう。
Q. 現代の地球人類と同レベルの科学文明が10光年先にある。電波による相互通信が可能で、互いの言語も解読できるが、物質のやりとりは一切できない。この状態で宇宙人にヒトゲノム配列を送信し、さらに地球の分子生物学知識も送信すれば、宇宙人はヒトを構築できるか?
相手の名前を「ロス星人」と呼ぶことにする。ちょうどそのへんにロス154という赤色矮星があるからだ。惑星は見つかっていないが、あることにしよう。
「互いの言語が解読できる」という条件は、暗号解読に使うような統計分析を使えばそれほど難しくないだろう。片道10年なので往復20年、統計がとれるほどのコミュニケーションをすると世紀単位で時間を消費してしまい、その間に地球文明も相当進歩してしまうが、そういうのは今回は無視して、2021年時点で意思伝達が確立しているとする。
ロス星人の生物学的構造ついてここでは言及しない。地球生命の仕組みがどれだけ必然性に基づいて構築されたのかはわからないので、もしかしたら彼らも地球人と同じようなDNA遺伝子を持っているかもしれないし、まったく違う遺伝物質や代謝構造をしているかもしれない。
そうなると「ロス星人が地球人にどれだけ似ているかで答えが変わるな」と思うだろうか。確かにそういう側面はあるが、このクイズには明瞭な答えが存在する。ロス星人の文明度を「現代の地球と同レベル」と仮定したので、
A. 無理。ゲノムデータのみから地球生物を再生することは、地球人類にもまだできないので。
となる。
「しょーもない引っ掛けじゃねーか」と思わたかもしれないが、以下にどんな技術的困難があるかを3点ほど説明させていただきたい。読めばこの答えに納得が行くと思う。
困難1. ヒトゲノム情報をDNA分子に書き起こす
電波で送信されたヒトゲノムはあくまでデジタル情報であって、これを物質であるDNAに変換する必要があるが、意外にもまだこれができない。
DNAの遺伝情報は塩基という文字によって構成されているが、いま人類が化学的に(=生物を使わずに)合成できるゲノムは、せいぜい数千文字でしかない。これに対し、ヒトゲノムを構成する染色体で一番大きいものは2億文字からなるため、桁が5つ足りない。
「一度に合成できるのが数千文字でも、何度も合成して貼り合わせればより大きなDNAを作れるのでは?」というのはそのとおりで、2010年に細菌の全ゲノムが人工合成されたことがあるが、これは断片をつなぐために酵母の力を借りている。酵母は地球生物で、ロス星にはない道具だ。
またヒトのDNAはただの紐状分子としてフラフラしているわけではなく、ヒストンという芯に巻きつけないと正常に機能しない。この芯はただ染色体の構造を維持するだけでなく、遺伝子が発現するタイミングを制御する機能を持つ不可欠なパーツだが、この巻き付け行程を人工的に行った人は(たぶん)いないので、どれだけ困難なのかはよくわからない。
とはいえ、数千文字でできることを2億文字でやるのは単に技術的、というか量的な問題だ。microSD の容量が10年で1000倍になったことを考えると、案外あっさりと解決するのではないだろうか?
参考として、DNAの書き込みではなく、読み込み技術の進歩を見てみよう。ヒトゲノムの解読完了から20年ほど経ったが、DNAを読むコストは半導体産業で有名なムーアの法則を上回る速度で急成長したことが知られている。
ヒトゲノム計画の総費用は27億ドルと見積もられ「アポロ計画以来の大規模科学プロジェクト」とまで言われたのだが、今はすでに1000ドルを割っており、一般人が普通に使えるようになった。50年誰も続かないアポロ計画との差は明らかだ。
ここまでの急成長が可能となったのは、月面着陸がこれといった産業的応用を見出していないのに対し、DNAを読むことが医療や農業へ幅広く応用できるからだ。ではDNAを「書く」ことには、どういった産業需要があるのだろう。
2020年のノーベル化学賞となったゲノム編集は、既存生物のゲノムのごく一部を書き換えるだけなので、数千文字の合成ができれば足りてしまう。億単位の超巨大DNAを合成できるならば、応用が期待されるのは医療よりもむしろIT分野だ。つまりDNAデータストレージである。
理論的には1グラムのDNAに200ペタバイト(20万テラバイト)の情報を詰め込める。実際には冗長化などで何桁か減るだろうが、それでも圧倒的な高密度なので、マイクロソフトなどがDNAストレージ技術に積極的な投資をしている。この壁は遠くない将来に陥落するかもしれない。
(ただし読み書きの速度が極めて遅いので、磁気テープのようなアーカイブ用途に留まると思われる)
このあたりの技術情報は ImPACT調査報告書「長鎖DNA合成技術の進展と課題」 (野地博行, 2019年) [PDF] に日本語でみっちり記述されているので、関心がある人は読んでみるといい。
困難2. 人工ゲノムをいれる人工細胞を作る
おそらくこれが一番の困難。人類が火星に行くよりも難しい。
ヒトゲノムがいくら人の設計図だと言っても、ヒトゲノムの書かれたDNAを試験管に入れればモコモコと胎児がわいてくるわけではない。そこに書かれた情報を読みとり、周辺環境から物質とエネルギーを吸収し、設計図を組み立てる実行部隊が必要だ。これは細胞の役割である。要は「フル機能の細胞を人工的に作れるか?」という話だ。
現在、細胞の個々の機能を細胞なしで実現するのはわりあい可能になってきている。すっかり有名になったPCR法は、平たく言えば細胞外でDNAの一部を複製しまくる技術だ。ほかにも、細胞に似せた脂質膜に入れたDNAを翻訳し、RNAやタンパク質を合成する技術も実現している。
ただ、こうした機能を全部乗せして、自律的に増殖しつづける人工細胞を作ることは現時点では不可能だ。いま人の手で完全な細胞をつくる方法はただひとつ、すでにある完全な細胞を分裂させることである。
(このへんは筆者の主観だが)ゲノム合成に比べて細胞自体の合成が困難なのは、ゲノム配列が1次元の文字情報なのに対し、細胞の物質構成は3次元的で、しかも離散的でない連続系である点が挙げられる。テプラと3Dプリンターの差と言うべきだろう。(細胞の立体的構造をどれだけ忠実に再現する必要があるのかははっきりしない)
なお、こうしたパーツを組み立てるボトムアップ人工生命とは逆に、既存細胞の遺伝子から不要なものを削って理論上最小の生命体を作るというアプローチも存在する。自然界でもっとも単純な細菌は108万文字のDNA、525個の遺伝子を持つが、2016年にHutchison らはこれをさらに削って、53万文字のDNA、473個の遺伝子だけで自律的に増殖可能な細胞を作成している。このうち149個の遺伝子は機能が未知であるため、さらに削れる可能性がある。
(※「DNA」と「遺伝子」の違いは詳述しませんが、だいたい数百〜数千文字のDNAがひとつの遺伝子をなす、と思ってください)
このようなトップダウン方式で単純化された生命が、いずれボトムアップで合成可能な人工細胞に追いつけば、それが人類にとってはじめての「生命そのものを人工合成する」瞬間になるはずだ。
ただ、そこからヒト細胞(つまり真核細胞)を合成するまでの道のりが、まだ遥かに遠い。
また、こうした人工細胞の技術は基礎科学的な意味はきわめて大きいが、DNAストレージのような産業応用があまり想像しづらい(そのへんの細菌や酵母を使う方が早い)。経済界のブーストが期待できないというのも、実現を困難にする理由のひとつだろう。
(David Shaw のような生命科学に造形の深い億万長者が興味を持てば実現するかもしれない)
なお「進化的必然によりロス星人の細胞が地球人類とほぼ同じで、ロス細胞にヒトゲノムを入れればヒト細胞として機能してしまう」という展開についても付言しておこう。絶対不可能とは言えないが、そういうのは地球の哺乳類同士でもかなり難しいので、SF小説に書いたら「まったく独立に進化した生命がそんなに似ているはずがない。つまりロス星人の正体は古代に移住した地球人だ!」などと、あらぬ伏線を疑われてしまうだろう。
困難3. 人工細胞からヒトの個体を作る
ロス星人の献身的なテレワークによって、10光年先でヒト細胞ができたとしよう。だが、それはまだ細胞であってヒトではない。これを受精卵として胚発生させ、ヒトの成体にする行程がある。ここで必要となるのは、誰もが一度は体験したであろう子宮だ。ロス星にヒトの代理母は存在しないため、地球の胎児を育める人工子宮の製造法をデータ送信しなければならない。
人工子宮が地球にまだないのはご存知のとおりだが、普及すれば現代女性のライフプランに大幅な変革をもたらすのは間違いない。またインドの貧困女性に出産を「外注」するビジネスが存在しており、国際的な社会問題になっている。1回の出産で代理母が受け取るのは6000ドルほどらしい。
こうした点からも人工子宮は社会的注目度がきわめて高く、有名誌に数多くの論文が掲載されている。最新の研究例をひとつ引用すると、2021年3月にイスラエルの Aguilera-Castrejon らが妊娠5.5日目のマウスの胎児を取り出し、そこから6日間育てたことを報告している(マウスの妊娠期間は19日間)。
技術的にも社会的要請の点からも、本記事であげた3項目の中では一番最初に突破される壁だろう。いま現役世代の皆さんは「人工子宮から生まれた子供たちや、それを利用する親たちに、倫理だの不自然だのといった難癖をつけて差別しない」という精神的準備をしておいたほうがいい。
おわりに:10光年先でヒトが生まれたとして、それは人間になるのか?
以上に挙げた3点から、デジタル宇宙移民は「現代の地球と同レベルの文明」では不可能だ。とはいえ、超光速航行や永久機関のように物理法則にもとづく制約が存在するわけではない。あくまで技術的・経済的な問題なので、地球およびロス星の文明が大災害や終末戦争で崩壊しなければ、いずれ実現すると思われる。
となると、ヒトを太陽系外の異文明に送り込んだ「その先」のことをちょっと考えてみよう。
先に述べたように、DNA分子を単体で送り込んでも細胞がなければ増殖できないし、受精卵が単体で存在しても子宮がなければ新生児として誕生できない。我々の生命は途方もない量の「過去の蓄積」に依存しているわけである。
そのアナロジーで言えば、生物としてのヒトが何個体か存在しても、それを受容する「人間社会」がなければ、人類は人類たりえないのでは? というのがごく自然な発想だろう。
こうした人間たちが、その地でどんな社会を築き上げるのかを見ていけば、我々が数万年かけて築き上げた人間の文明が何であったのか、について示唆を与えてくれるに違いない。
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