自我よ、泥中の蓮であれ。
誰より鮮明な人間になりたいと思って生きている。
稀少であることに価値があるのならば、きっと僕にとってそれはまさしく「鮮明であること」だからだ。
呼吸をするように直観に頼り、思考を止めてしまう時がある。
パッと見て己の頭で理解が及ばなかった時、「何かよく解らないもの」として、当たり前のように視界から切り捨ててしまう時がある。
そうやって自分の頭で考えず、取り敢えず「考えた振り」をして、処理済みタスクに移動させてしまう己の怠惰さを何より憎たらしいと思う。
そうやって考えないことを正当化した後、能力が落ちたら手のひらを返して嘗ての自分を否定する癖して、どうにも筋の通らない人間だと怒りさえ湧く。
止まった水は腐るのだ。
脳味噌が腐ってから後悔したって遅いのなら、努力をすべきなのだ。
人の優しさに頼るな、自分がされたらボロクソ言うのだから搾取をするな。ずっとそればかりだ。
すっかり根付いた直観の強さと人格は最早切り離せない程に引っ付いていて、気を抜けばすぐに怠惰に落ちる。
どうにもサボり癖は人一倍付きやすい癖して、変に口が回るもんで物事を力押しで正当化してしまえるだけの強かさもある。
努力をするのは嫌いだ。
結果が出ないだけで怒鳴り散らしたくなるし、事実そうでもないのに裏切られた気分になってイライラする。
根底から素直で居れば他人からの受けは死ぬほど悪いのだから、プラスな事は口にするがマイナスな事を口にし始めたら自制しないと生きていけないくらいだ。
そんな僕が、今より僕の価値を上げようとした時、善人達と同じ土俵で戦って勝てる訳が無い。
集団の中で協調性が無いだけであっという間に落ちこぼれになるような社会で、まともに勝負なんかしたところで負けるのは決まっている。
負けてキレて、それで何が変わる?何も変わらないどころか右肩下がりだ。
だから僕はスタートラインが違うことをここぞとばかりにひけらかして生きている。
マイナススタートの人間の100と、プラススタートの人間の100は価値が違う筈だ。なんてったって伸びしろが違う。
であるならば、どうせ努力をするならば、一等難しいことに挑戦すべきだ。
嫌な事をやるのにまともな対価が返って来ないんじゃあ、自己肯定感も焼け野原だし、何よりまたキレる。
だから僕は思考を止めることを何より嫌って、分からないものに怯えることを嫌って、知ったかぶりを蔑む。
それが怠惰なまま生きた自分のいつかの姿であり、忌むべき未来だからだ。
自分がそれを嫌うことで、気怠さに身を任せて堕落するリスクを一ミリでも削りたいからだ。
例えば小川のように水量が少なかったとしても、流れが止まらなければその水は腐らぬまま、新鮮なままにに空へ還ってまた雨として生まれる。
僕にとって「思考を止めないこと」は正しく「鮮やかであること」なのだ。
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