空白と雨
雨の日に窓を開けて、湿っぽい空気を浴びながら思考を巡らすのが好きだ。
ノートの見開き一ページ、まっさらなままのそれにペン先を落とすのが好きだ。
どうしようもなく思考が濁った時、そうやって自分をリセットしようと試みてはまた失敗する。
好き嫌いなんかで行動を選んだら、毎回失敗ばかりする。
事実、今までずっとそうだった。
自分はどうしようもない出来損ないだ。だからやっぱり理論で生きるしかないのだ。
ぐっちゃぐちゃの頭でも、ひねりの無い正論はどうにか組み立てられる。
机上の空論と馬鹿にされながら組んできた理屈がある。
空っぽの箱を守るように、自分の主義主張が誰かに否定されることに怯えていた。
そこに本当の自分がいなくたって、何処からともなく飛んでくるその「攻撃」が憎たらしくてたまらなかった。
怒りを原動力にしたとき、全てが上手くいった。
組み立てた自分がこれまでのどの自分より強く感じた。
一等正しくて、論が強くて、負けない。上手い戦略だって立てられる。
成し遂げさえすれば、惨めに無様に這いつくばる羽目にはならない。
それが何より嬉しくて僕はもう堪らなかった。
キリキリ痛む胃の奥に、自分っぽい何かを押し込めて息をする。
何だか痛い。すごく痛いけれど絶対に死なない痛みだ。
死なないのなら大したことは無いじゃないかと理性的な僕が言って、ぐちゃぐちゃに泣いていた感情の僕は納得したように涙を引っ込める。
いつもの事だ。
納得さえ得られればなんだってできる。なんだって呑み込める。
そう思わなければ生きてなんか来れなかった。
不器用で、何するにも要領が悪くて、馬鹿みたいにプライドが高い僕なんかが。
何て生きにくい世界なんだろうか。
先見性だの合理性だの褒める癖して、みんなそういう奴が嫌いなんじゃないか。
人生でコスパだけ求めてたら嫌になるとか、きちんとしている事だけが良い事じゃないとか。
結局のところ、「きちんとしてないやつ」の方が多いから、
かつて「そういうやつ」だった人はそれが疲れる、苦痛だ、嫌だって言うんだ。好きでやってるやつのことをそうやって邪魔して気遣いの振りをしないでくれ。
なんで頑張って楽しんでるだけでそうやって、「そんなことで楽しむなんて変」みたいな偏見をぶつけられなきゃならないんだよ。
いい加減にしろ。
引き気味の薄ら笑いでまた、「無理しなくていいよ」と声を掛けられる。
心配なんかしてない癖に。
無理してねぇよ、クソッタレ。
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