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推す先に、人は進める。

僕には、何年何十年も応援してる人なんていない。
だから自分にとっての推しが何なのかよく分かっていません。

でも周りには、推しの存在が原動力になってる人たちがいる。そういった人にも出会ったのだ。

この機会に改めて推しについて考えてみよう。

自分にも理解できる部分があるんじゃないかと思って、宇佐美りんさんの著書『推し、燃ゆ』を手に取ってみました。

物語は、推しがファンを殴って炎上するところから始まる。いきなりすぎてびっくり。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
推し、燃ゆ

作品も人もまるごと解釈し続けることをスタンスとしてる主人公のあかり。謝罪会見を診終えて、推しの言動の意図を推測しようとする。

世の中にはいろんな推し方がある。
推しの全てを信奉する人もいたら、恋愛感情だけを持つ人も、作品だけが好きでスキャンダルに興味を示さない人も。

あかりは推しが感じている世界、見ている世界を同じように見たいと思っているのだ。

そのためラジオやテレビなどで推しの発言を聞いては、ルーズリーフに書きつけてファイルに保管。放送された番組は何度も見返す。

そして解釈したものは記録してブログとして公開。
更新を待つ人がいるくらい人気となったのだ。

いつもブログを見ている人から見た彼女は、文章が大人で優しくて賢いお姉さんといった印象らしい。

でも実際には、病院でふたつほどの診断名がつくほどの生きづらさを抱えている。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
推し、燃ゆ

推しを推すことにおいて、人生を彩って肉付けしていくのではなくて、余計なものを削ぎ落としていく。そういったニュアンスで使われた言葉が"背骨"であった。


家族やバイト先でも関係性がうまくいってない姿とは裏腹に、推しを語るときは生き生きとした姿が絶妙だと感じた。

そんなあかりの推しとの距離感について。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。
推し、燃ゆ

あかりは推しの存在を愛でること自体が幸せで、それはそれで成立するもの。お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけではないと。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。
推し、燃ゆ

推しを推すとき、すべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけど満ち足りていると。


どちらかというと僕は会えないよりも、会えるというか距離の近い人を推したい派だ。ほどよく近い人を。

でも彼女の考えを聞いて、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じることは安らぎを与えてくれそうだと感じた。

壊れることのない関係性は、たしかに安心する。

推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。
推し、燃ゆ

彼女の推しの解釈からは感じるもの学ぶものが多くあった。そして自分とは反対に、推しがいるよって人が読んだらどんな感想が出てくるんだろうか。


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