【物語】天国地区
人は、魂だけになると、天国という遠い場所に行くのだと思っていた。
アキラの訃報を聞いたのは、夏の終わりを感じはじめた八月下旬。ボクは日雇いのバイトで、工事現場に立っていた。
夏の終わりを感じるとはいっても、やっぱりまだ暑い。風は少し涼しくなったけれど、太陽は相変わらず容赦なかった。かぶったヘルメットの中は、亜熱帯だ。汗が額を滴り落ちる。
「おい、水分補給しろよ!」
同じ現場の先輩が、定期的に声をかけてくれる。ボクはひとつのことをすると、他のことが見えなくなる。水を飲むことすら忘れる。だから、そう言ってくれる、先輩の存在は有り難い。
「はい! 了解っす」
汗を拭って、街路樹の下においたペットボトルに手をのばす。軽いめまいを感じた後、音も視界もなくなった。
気がつくと、知らない街にいた。やけに白い街。建物も空も真っ白で、とても静かだった。ボクは現場の作業着から普段着に着替えていて、白っぽい道を歩いている。どこに向かっているんだろう。そんなことをぼんやりと思った。
白い街には、大きなマンションがいくつも並んでいる。ひとつのマンションの前で立ち止まると、ふと上階を見上げた。ベランダから手を振っている人がいる。
「アキラ」
招かれたアキラの部屋も真っ白だった。天井も壁も床も。白いテーブルに白い椅子。ボクは、アキラの対面に座った。
「お前、身体、大丈夫なのか?」
「ああ、心配かけたな」
そう言って、いつもの優しい笑顔を見せた。
半年前、アキラは事故にあった。横断歩道で信号待ちをしているところに、居眠り運転のトラックが突っ込んだ。死んでもおかしくない事故だった。でも、アキラは死ななかった。死なずに、ただ眠り続けた。
「あれだけの事故だったんだ。正直ダメかと思ったよ」
「お前はいつも大げさなんだよ」
「それはそうと、退院したなら、連絡ぐらいしろよ」
「ああ、すまない」
「ここに引っ越したのか?」
「ああ、荷物は全部、置いてきた」
確かに部屋には、なにもない。電化製品はもちろん、カレンダーや時計さえ見当たらなかった。窓からは、白っぽい空が遠くまで見えていた。
「会えたのは嬉しい。けど、お前がここに来るのは、まだ早い」
ボクは、アキラがなにを言っているのか、わからなかった。当たり前のように話をしていたが、思えば、不自然な街だった。
「ここは、どこなんだ?」
「天国地区」
そこからのアキラの話は、まるで物語のようだった。それは、ボクが物語のようだと感じただけかもしれないけれど。
アキラの話は、こうだった。
前の晩、アキラのもとに、案内人とよばれる人が訪ねてきた。案内人は、天国地区への移住について、アキラに説明した。持っていけるのは、記憶のみ。本人の希望を尊重すると。アキラは、その契約書にサインした。そして、与えられたのが、このマンションの一室だった。
「お前、死んだのか?」
「まあ、そうだな。実感はないけどな」
天国地区は、肉体を持ったボクらが住む世界の隣にあるらしい。アキラの話によると、いろいろな世界が並行にあるそうだ。ボクらが住んでいる世界は、言うなれば、物質や肉体を介する三次元地区。
それぞれの地区が、茫洋とした世界に、隣り合わせに並んでいる。たまに、その境界を越えてしまう人がいるとか。信じ難い話だが、アキラがそう言っているのだから、きっとそうなのだ。
「お前の口から、訃報を聞くとは思わなかった」
「確かに。オレも、お前がここに来るとは思ってもみなかった」
お互いに顔を見合わせて、笑った。予想外なのは、お互いさまだ。
「そうか。でも、なんか安心した」
「ああ。オレはここで元気にやってるから、心配するな」
穏やかなアキラの表情は、半年分のボクのモヤモヤとした思いを、すっと消した。
「お前も、お前の地区で頑張れよ」
「ああ、頑張るよ。じゃあな」
アキラのマンションを出て、部屋のある場所を見上げると、アキラは笑顔で手を振っていた。
「オレは、いつでもここにいるから」
その言葉は、安心と同時に、前に向く力をボクに与えてくれた。
同じ時間に同じ場所で生きていても、会えない人の方が多い。同じなんだ。それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしている。
帰ろう。まだ、ボクがいるべき場所へ。
目を開けると、病院にいた。ぼんやりと人の顔が見える。
「お兄ちゃん! わかる? 見えてる?」
「サナエ?」
「もう! 急に倒れて意識不明になるから! バカ!」
「大丈夫ですか? 聞こえてますか?」
「あ、はい、聞こえてます」
「バイタル正常です」
「お前! 水飲めって言ったろ!」
「ああ、先輩」
「ああ、先輩、じゃねえよ!」
「お兄ちゃん、もうすぐお母さん来るから」
「ああ」
ここは、忙しない地区だな。
そう思った。
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