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目覚め

〜朝の読み物 《夏 2022.7.5》〜


つま先に猫のプーのふわふわとした毛が触れた。
朝の葛藤はここからはじまる。

うっすらとエアコンをかけていても、今日も暑い日になることはカーテンから漏れる日差しの強さでわかる。それに、プーに触れているつま先がすでに暑い。
このままプーとごろごろしながらまどろみたい気持ちと、今、身体を起こさなければ今日こそ遅刻するのではないかという焦り。

不意に、中学生だった頃に憧れていた藤枝先輩の顔が浮かんだ。

月曜日の2限目が終わると、クラスが離れてしまった真希を待つふりをしながら、中庭の見える廊下の窓からこっそり顔を出していた。
体育の授業を終えた先輩は、校庭から中庭を通って校舎に向かう。なぜかいつも藤枝先輩を真ん中にして、仲の良い3人で連れ立って歩いていた。

思い出すのは決まってその光景で、汗をかいて少し赤らんだ顔に、スポーツタオルを首からかけた先輩の姿だ。

あるとき、
「藤枝先輩、ゆう子がいつもそうやって見てるの気づいてるらしいよ。」
後ろから声がして、驚きながら振り返ると、いたずらっぽく笑う真希がいた。二人で窓辺に並ぶと、
「先輩、これから本格的に受験勉強でしょ。それ終わると同時にいなくなっちゃうよね。」
彼女がこちらの表情を伺うように言葉を発した。
藤枝先輩のことだけを言い淀んでいるわけではないことがわかった。

受験勉強という言葉のなかに含まれるたくさんの未知や見えない将来。彼女の不安に触れて、私も同じなのだと伝えようとしたとき、笑いふざけながら歩いていた藤枝先輩がこちらを見上げた。
眩しそうだけれど、先ほどまでの笑顔はそのままの先輩としっかりと目が合った。
息を飲んだのと同時に真希に伝えたかった言葉は喉を逆流して、
「藤枝先輩はどこの高校行くんだろうね。」
と私は真希に視線をそらした。

大人たちはみんな、自分が何者かを知り、何をすべきかを知っていると思っていた。自然発生的に知るときがくるのだと思っていた。
だけれどそんな日は待てど暮らせど来なくて、自分で答えをつくるしかないのだといつしか諦めた。

この部屋で暮らしはじめるときに、プーも実家から連れてきた。学生の頃は毎朝6時になると、プーにごはんをせがまれたけれど、今のプーはまだ半分夢のなかにいるような目をしている。

何者にもなれないまま大人になるなんて知らなかったあの日の私。

大人の私は今日も、プーにごはんをあげて、支度をして、電車に揺られる。

私はゆっくりと、身体を起こす。

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