死を想う2

死生観を持ちたい、生きていくために

 日頃、死について考えていることを、ゆるゆると書いていきます。
 今回は、谷川俊太郎『ひとり暮らし』を読み始めたので、そこから考えたことを書きたいと思います。
※私が考えたことを書いていくので、本の内容について多くは触れませんが、これからこの本を読む方にはネタばらしになってしまうかもしれないので、お気を付けください。

『ひとり暮らし』は詩人である谷川俊太郎さんのエッセイ集です。死がテーマの本、というわけではないのですが、死ぬこと、生きることや、お葬式についてのエッセイも収録されていました。

 まだ途中までしか読んでいないのですが、その中で私が気になったのは「私の死生観」というタイトルのエッセイです。
「死生観というようなものは、もっても無駄である。観念に過ぎないからだ。」と始まって、死生観ではなく、具体的にどう死んでいくかという「死生術」を持ちたい(終活のようなものでしょうか)というお話が続きます。
 そして、色々と検討した結果、「人事を尽くして天命を待つ」しかないという結論に至り、最後は、現代は天命という観念を失っているのではないか、「とすると何らかの「死生観」はやはり必要なのかもしれない。」と締めくくられています。

 以前、宮子あずささんの『看護婦が見つめた人間が死ぬということ』を読んだときに、死は本人にとっては哲学的な問題だが、周囲の人にとってはそれ以上に現実的な問題だ、というようなことが書かれていました。エッセイを読むうちに、そのことが思い出されました。
「死生術」は、どちらかというと、自分の死を客観視したときや、自分の周囲の人のことを考えたときに大切なもので、一方「死生観」は、死に向かっていく自分自身の心のためのもの。谷川さんがどのように思っていたのかは分かりませんが、私はそのように感じました。

 そう考えると、私には、死生術だけでなく、死生観も必要だなぁと感じます。私は、自分が死ぬ前に、死ぬときに、死んだ後にどうなるのかが怖くて、常に不安を抱えています。これは、私自身にとっての問題です。そして、死は絶対に避けることができないため、恐怖と不安の原因を取り除くことはできません。
 だから、私が前向きに生きていくためには、死に対する考え方を変えていくしかないと思っているのですが、この、私が変えたいと思っている「死への考え方」は、死生観なのではないかと思います。

 エッセイ集の中で、谷川さんは死を前向きに捉えているように感じました。死んだ後どうなるのかという楽しみがある、と書いています。
 でも、私は死ぬのがとても怖い。怖いから、きっと谷川さんが必要だと言った「天命という観念」以外の死生観も、私には必要なのだと思います。
 恐怖に囚われないで、前向きに生きていくため。日々の生活のため、心安らかに毎日を過ごすために、死生観が必要です。
 だから、ずっと死について考えて続けているのだろうと思います。

 今回は、谷川俊太郎さんのエッセイから、死生観について考えてきました。最後に、エッセイの中で、必要なのではないかと語られていた死生観、天命について。「天命という観念こそ、現代が失いつつある最大のものではないか」と書かれていましたが、どういう意味なのでしょうか。現代では、自由自在に死に方を決められるような気がしている、ということでしょうか。

 自分の人生に何が起こるか分からない。死に方を自分で決めることはできない。日頃、死について色々と考えている私ですが、このことを再確認すると、「考えても考えても、やっぱり死についてどうすることも出来ないのだ」とハッとした気持ちになります。

 それでも。私は生きるために死について考えています。だから、死はどうにもならないことだとしても、やっぱり、考えることはやめられないのです。

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