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芸術が気づかせてくれるもの

写真家の従姉妹の、写真展に行ってきました。

結局、よくわからない。

芸術ってよくわからないんだけど、
どうしてか
心が動くものと動かないものがあります。

今回の従姉妹の写真展は、
もともと彼女の写真集で
見ていたものではあったけど、
私の心は、動きました。


私の心が動いたのは、
生まれた頃から彼女のことを知っていて、
よく一緒に遊んでいたからだと思う。

だからその過去フィルターを通してでしか
写真も見ることができません。

私のような、彼女の過去フィルターのない
全く通りすがりの人とかそういう人って、
彼女の写真をどう感じるのだろう。
その感覚には、私はもうなれない。

そう考えると芸術って、
アーティストの表現でもありながら、
見る人にフィルターや世界観、価値観を
気づかせてくれるものでもあるかもしれない。

親や兄弟姉妹、友達というフィルターも
それぞれに違うんだろうと思う。

私が今回気づいた自分のフィルターは、

写真展の会場にたどり着く前の、
アクセスを調べたり
暑い中ちょっとイライラした会場まで歩く時間、
周りの風景や会場の雰囲気、
そして私が知る一部の彼女のことなどで
構成されている、ということです。

決して、作品である写真だけに
心を動かされたわけではないのです。

そっと写真の横に置かれた
短い彼女の言葉を読んだら
さらにフィルターがかかって、
彼女の不器用さやもどかしさ、
意地ややすらぎみたいなものが
次々と浮かび上がってきて、

静かな場所で私の心は忙しくなり、
泣きそうになった。

それらは彼女にとっての正解なのかは
わからないんですけどね。

彼女も、彼女の作品を見る人も、
結局その人のフィルターを通して世界を見る。

私は、その人の背景、過去、生き様といった
ストーリーにも目を向けて
フィルターを作るようです。

だから美術館とか行っても
芸術はなにも語ってくれないから、
本人の言葉や説明があると、必ず読みたくなる。

写真家の彼女は
言葉を多く使うことを嫌う(多分)ので
あまり写真展では言葉で教えてくれなかったけど、
それでも十分想像できる彼女はいっぱいありました。

幼い頃の彼女が頭に浮かんで
今の彼女と変わっていないことを感じて、
ずっと感じている息苦しさのようなものも
感じた気がして、やっぱり少し、
泣いてしまった。

そして今回一番感じたのは
表現するもどかしさです。

表現したい、
表現したいのになにを表現したらわからない、
どう表現したらいいかわからない、

っていう、自分の心が発している
自分にもわからないなにかを表現したいと
思っている人って、多いと思うんです。

もちろん私もその一人で、
ずっとずっと、自分の心の声を探り続けて
私は言葉をとにかく吐き出している。

彼女は、「写真」というツールを使って
表現することを見つけているわけだけど、
それでも安易に作られたわけではない
試行錯誤のような葛藤のようなものが
伝わってきました。

だけど「写真で表現する」ことを
見つけられただけ、幸せだとも思います。

それすら見つけられない人も
いると思うから。

そんなもどかしさを持っている人は、
このnoteという場所にも、多い気がする。

写真展がきっかけで
私の心が動いたおかげで、
自分の心の声がまた見つかりそうな
気がしています。





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