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「かわいくない」女の子 『秘密の花園』

子どものころ、お姫さまが出てくるお話を好きになれなかった。お姫さまは生まれたときから美しくて、心根が優しくて、だれからも愛される存在だと決まっていたから。
それになんでお姫さまとは素直で優しい女の子、と相場が決まっているのに、ひとの言いつけをさっぱり守らないのだろう。とても不思議だったが、これはまた別の話。

子どものころなぜこの本が好きだったのだろう、と大人になってふと考えたとき、思い当たったのは『秘密の花園』の主人公がたぐいまれに「かわいくない」からではないか、ということだった。
顔だちが不器量な主人公はたくさんいる。「長靴下のピッピ」や「赤毛のアン」だって、顔はかわいくない。でも、奔放で愛すべきキャラクターで、登場人物と読者のこころを離さない。
ところが『秘密の花園』の冒頭のメアリーは、かわいそうなくらい愛すべきところがない。
肌は不健康に黄色くて、やせっぽちで、表情にとぼしく、怒りっぽくてわがままで、明るくふるまうことも人にやさしくすることも、人にお礼を言うことも知らず、どうしようもない子なのだ。両親に愛されなかったから、というのが免罪符になっているが、それにしても作者のバーネットの意地悪なのではないかとおもうくらい、かわいげがない。小公子や小公女ではあれだけ愛されるべき子を書いているのに。

『小公女』のセーラは運命に翻弄される女の子だ。父のいいつけで学校に入り、父を亡くし、召使よりもひどい扱いをされて、最後は父の友人の登場で苦境を脱する。
メアリーも両親が疫病で亡くなって、生まれ育ったインドを離れイギリス・ヨークシャーへ向かう。メアリーも自分の力ではどうにもならないことに振り回されるけれど、かわいげのない彼女の魅力はここからが真骨頂だ。
メアリーは、ひとことでいうと「自分で決めたことが絶対」な子だ。これは頑固なかわいげのなさでもあるけれど、人の判断や常識、決まりごとにとらわれないところでもある。誰のことを好きになるかは、階級や学歴に一切関係ない。誰がいい人なのか、自分で決める。「やっていい」と言われたことは忘れてしまうが、やりたいと決めたことはやり通す。
ヨークシャーの片田舎で、顔の黄色い痩せすぎの女の子、のままでメアリーは終わらない。私はこう思う、こう考える、こうしたい、にとても忠実で、実現する力のある女の子だ。閉ざされた花園の話を聞けば入り口を見つけ出し、子どもの泣き声が聞こえれば隠された若主人・コリンを探しだす。そしてそんな彼女が物語を少しずつ動かしていく。

特に古い児童文学の中で、女の子は受け身なキャラクターが多い。そんななかで、メアリーは自分の意志で、自分が正しいと思うことに忠実に自分の人生を作っていく。従順さも心の優しさも、絶世の美貌もないけれど、まっすぐに生きる彼女はなんとも愛さずにいられない存在なのだ。

ただ、『秘密の花園』はメアリーが自分の人生を作っていく話ではない。物語の最後、メアリーの姿がない。誇らしげなコリンとその父しか描かれない。

メアリーはどこにいってしまったのだろう。彼女は閉ざされた花園を開き、父子を和解させるための存在でしかないのだろうか。
まるで主人公らしいかわいさのない彼女が作りあげた物語なのに、最後の最後に彼女は必要とされなかったのだろうか。かわいらしさのない彼女は、主人公として認められなかったのだろうか。

いつも本を閉じるとき、彼女はどこにいるだろうと心にひっかかったままでいる。


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