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その日、私に病名がついた。

眠れぬ夜の先に

ある日から私は夜も眠れない日々を過ごすようになった。心療内科で発達障害の検査をした日からだった。

発達障害だったらどうしよう。

発達障害じゃなかったらどうしよう。

検査の結果がどちらでも困るんじゃないか、と笑われそうだが、この当時は本当に必死だったのだ。

私のなかに発達障害の人への偏見や差別意識があって、発達障害の人と同じになりたくないから、"できない人"になりたくないから、発達障害だったらどうしよう。

このよくわからない生きづらさが私の脳の障害でなく、ただ私のせいであったらそれはそれでつらい。だから発達障害じゃなかったらどうしよう。

でもやっぱり基本的に勉強が"できる"側として通ってきた私に発達障害であると認めろというのはきつかった。発達障害と言えば、片付けが全くできないとか、お金の管理ができないとか、忘れ物をするとか、遅刻をするとか、そんなイメージだったからだ。

そのイメージはそのまま"仕事のできない人"に繋がる。だからこそ、私はそんなことない、そんなんじゃない、と心が叫んでいた。

発達障害のことを甘えとか思っている部分もあったし、何よりかわいがってくれていた祖父母は発達障害なんてものを理解しない人達なのを私は知っていた。

一方で、生きづらさに名前をつけてもらって楽になりたくもあった。この生きづらさはあなたのせいじゃない、あなたの脳が元々そうであるだけ、と言われたかった。

そして、その日。

眠れぬ夜と戦いながら、私は"その日"を迎えた。主治医はあっさりと告げた。

「知的障害を伴わない自閉症スペクトラム……いわゆるアスペルガーですね」

がんを告知される人間ってこんな気持ちなのかなと今は亡き身内のことを思った。発達障害は治るものじゃない。元々自分の脳が"そう"なのだからうまくつきあっていくしかない、ということ。

もうその夜の感情はぐちゃぐちゃだった。生きづらさに名前がついて私のせいじゃなくなったことに安堵する私もいれば、発達障害への嫌悪感や発達障害であることに対する罪悪感を捨てきれない私がいた。

そして何より。私の成長に関わってきた大人達を恨んだ。何故子どものうちに発達障害があると気づいてくれなかったのか。気づいてもらえれば、そこで適切なケアが受けられていれば、二次障害の抑うつ状態をこんなに悪化させはしなかったんじゃないだろうか。

そうは言っても子どもの頃から勉強ができるで通ってきた私に教師が違和感を持てるだろうか。それなら親だ。親が気づくべきだったんだ。人の気持ちがわからないなんて私のことを非難している暇があったらそこに障害があると気づくべきだったんだ。

何度も思う。子どもの頃に気づいてもらえていたら、と。

執筆のための資料代にさせていただきます。