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正しく愛されなかったから愛せない? 誰かの隣を諦めた~あるサバイバーの話~

虐待というと、何を思い浮かべるだろうか。暴力? 食事抜き? 怒鳴り声? それとも、心理的虐待? ネグレクトが知られるようになってきて久しいが、心理的虐待についても知られて欲しいと切に願う今日この頃である。

虐待から生き延びて大人になった人をサバイバーと呼ぶ。私はまごうことなき心理的虐待のサバイバーだ。

きょうだい間の比較、差別。人格否定の発言、誰がお金を出してると思ってるんだなどの脅し。親は議論しようとするとヒステリックに叫び出すから話にならない。

そんな状況で育ち、私もきょうだいにひどいことを言い、ひどいことを言われて殺意を抱いたりしながら生きてきた。血が繋がっていないからきょうだいと仲が悪いのという言い訳は血統主義が根強いこの日本ではすんなり納得してもらえる便利な言い訳だ。実際これで納得しなかった人を見たことがない。

物わかりのいい人になると、きょうだいと血が繋がっていないというだけで納得してくれた。

でもこれは懺悔の文章ではない。きょうだいに私がひどいことをしたのも、されたのも、私達が親から正しい愛し方を教わらなかったから。私達のせいじゃない。

だからと言ってされたことを許す気はないし、向こうもきっと許してはくれないだろう。それはそれでいい。仲良くなろうとか思っちゃいない。仲良くなれないなら距離を置けばいい。

でも、問題はもっと大きなものだった。私は正しい愛し方を親から教われなかったから、恋人どころか友人とすら健全な関係を築けなかった。

友人が他の人と仲良くするとすぐ燃え上がる嫉妬の炎。水にナトリウムを投げこんだみたいに火柱が上がる。

友人に私以外の大事な人がいることが気に入らない。私の判断した最善の選択を友人に押しつけそうになる。独善的で、支配欲が強く、友人を所有しているかのような振る舞い。

そう、私は立派なモラハラやDVの加害者予備軍だった。モラハラやDV関連の本を読んで自分の気質に気づいたときにはその気質で友人を数人失った後だった。

私は何とかモラハラやDVの加害者になっていないけど、それは私が変わったということではない。距離を取っただけだ。つまり逃げたのだ。

正しい愛し方なんかわからないままだ。虐待されてきたからしてはいけないことは何となくわかるのだけど、では何をすればいいかがわからないのだ。

例えば、相手を叩いてはいけないということはわかる。相手の人格否定もいけないのだとわかる。では、叩かずにどうやってしてはいけないことを伝えればいいのか、相手をどうやって褒めたらいいのか、それはわからない。

やってはいけないことはわかるけれどやるべきことはわからないのだ。親に大切なことを教われなかったから。

そこで私は考えた。将来、モラハラやDVの加害者として法廷に立たされるなんて、そんな悲惨な未来は避けなくてはならない。でも正しい愛し方を今から知るのは一苦労どころの話ではない。

本来人が親から学ぶものを学び直す、なんてとても時間がかかるし、苦痛も伴う。そこまでして正しく人を愛したいとも思わなかった。

必要とされる努力が膨大すぎて自分にはできないと思ったのだ。人のためにそこまで頑張る気が起きなかったのだ。

でも今のままで人とつきあっていれば、いつか法廷に立たされることになってしまう。それだけは嫌だし回避しなくてはならない。

そこで私は思いついた。距離をうまく取ればいいのだと。距離をうまく取って、自立した大人同士のおつきあいをすればいいのだ。このやり方ではたしかに恋人も親友もできないけど、友人ならできる。

誰かの隣は諦めるけど、誰かの近く、くらいなら諦めなくていい。虐待のせいで、誰かの隣は諦めたけれど、近くは諦めなくていいのだ。

執筆のための資料代にさせていただきます。