他者の理解って、どゆこと??➃"

※このシリーズは、他者の理解について、メンヘラ気味のオバさんが、世の中でうまく生きられるようにと、考えを深めていく記事です

※この記事は、➃の3個目です
  内容は、主に個人的な考えを書いていますm(_ _)m

前回と前々回は、形而上学??について例を挙げて書いてみました

外からは、なかなか“とらえられない”んだけれども、どうやら“ありそうなもの(こと)”というものでした


おさらいで···

とらえられるもの=言葉や事物
とらえられないもの=
(現代の感覚としては)言葉などで表現が難しいもの         
 事物として存在はしていないために、とらえることが難しいもの


でした

そして前回最後に、
これは日常で、しばしばあることではないだろうか···」と、書きました


患者さんの中に、“数値が変化する前の患者さんの気持ち”が残っているかのように(いやそれは、ほんとにそうなんじゃないかと、わたしは思う。別れを惜しむとき、人は怒りがわくことがあると思う。それに似ている気がする…)


【気持ちが残る】

みなさんは、【気持ちが残る】をどう思いますか?



形而上とか、そんなふうには思わないけど、
(だってあんまり聞かないじゃない?)
あのときはこうだった…とかはふつうにあるわね…

でも更年期障害はなったこと無いから、気持ちはなんかよくは分からないなぁ…(=少しは分かるかも)

病気や、つらいことでは全然無いんだけれど、例えば昨日食べたカレー美味しかったなぁ…また食べたいなぁとかは、ある…

そう言うのはある!
ケーキでしょ、ワインでしょー、焼き肉でしょーって、食べ物じゃなくても、
どこどこ行って良かった〜もあるし、反対にバスに乗り遅れて、その後も大変だったーも、あるわ。

結局、何言いたかったんだっけ(苦笑)?
あ、気持ちが残るよね(^_^;)
それって……、ふつうにあるわね……

だから当たり前過ぎて、どうかなんて、考えたりしないわよ。



そうですよね
“気持ちが残る”は、当たり前と言えるかもしれないですね。

つまり、
気持ちが残る”は、
現代の感覚として、認識され受け入れられていた
ということになります(←真面目な話し方だ(^_^;)カタイ)


形而上学って言われると、古文?漢文?のようで、距離感を抱いてしまう
義務教育の授業では、あまり出てこない……
なんだか謎のようで、無意識に犬猿してしまう……


かもしれません
(なんでそう思うのかは、他者の理解とは関係なく、また今度考えてみようと思います(^n^ゞ


長くなってきたっっ(;・∀・)

では、最後にこちら。。。

花の色はうつりにけりな いたづらに
我が身世にふる ながめせしまに
小野小町

いろいろ思い悩んでいるうちに、長雨で花も色あせていたのね__________