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四摂法(ししょうぼう)

四摂法(又は四摂事)とは仏教にて語られる菩薩が人々を導くための方法を4つに分類されたものです。

1.布施(ふせ)

物質的・精神的に得たものを独り占めせず分かち合うこと

2.愛語(あいご)

優しい言葉、慈愛に満ちた言葉、愛情のこもった言葉をかけること


3.利行(りぎょう)

見返りを求めずに人のためになることをすること

4.同事(どうじ)

相手の立場に立って物事を行うこと


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先生が生徒に
そして親が我が子に、

「私も君くらいの歳の時は悪さばかりしていてどうしようもないボンクラでね」

そのように話す方々が時折いらっしゃります。

その言葉で先生や親を見下す子供もいますが子どもたちの中にはそれを共感を伴うものとしてそれをきっかけに先生や親に対する警戒心を解き、話し手の声に耳を傾けることがあります。

このように四摂法の4番目「同時」は私たちの日常の中で意識せずとも慈愛として自然な形で存在します。

相手と同じ目線まで降りて話を聞き、そして相手と同じ目線まで降りて話をすることは誰にでもできることではなく心の余裕のある人にのみ出来ることだと思います。

現代では宇宙の多次元や行き過ぎた霊的世界など外的要因に触れる話がネット動画など至るところで散見され、それらの中には数少ないながらも有益な情報もありますが個人的にはなんと利己的で自己中心的な行為かと思わされることの方が圧倒的に多いように思います。

私たち人間はなぜこの原始的な地球環境に身を置きこの自然環境と多種多様な人種の中で調和をしながら共存しているかを正しく理解出来ていれば、どれだけ文明が高度に発達した星から来た宇宙人であってもそのような行為が低い霊性に基づくものであることに気づくはずではないかとさえ僭越ながら考えてしまうほどです。

布施、愛語、利行、同時

自身の内側に目を向け、菩薩行であるこれら四摂法を正しく実践するだけでどれだけの人間が幸せになり地球が平和になることでしょう。

私たち人間はバランスを崩すことなく常に三次元世界の現実と接触していなければ必ず人生の道を踏み外すことになると私は自らの経験からそれを実感しています。それは言い換えれば"地に足をつけた生活"と表現されるものかもしれません。

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私たち二元の世界に生きる人間は常に何が正しく何が間違っているのかを自身に対しそして社会に対し問い続けています。

右を向けば右側の教え、

左を向けば左側の教え、

どちらの教えに沿って学べばよいかと問えば時に「あなたのやり方で思うがままに」となり

そして信念に基づき自分のやり方を通しますと「自己主張が強い」「なぜ言うことを聞かないのだ」となり

「ではどうすれば良いでしょうか。言われた通りに従ってやれば良いでしょうか」と問いますと苛立ちと怒りが返ってくるのが私たちの過ごす会社組織など俗世での日常となります。

そして社内の人事異動があり上司が変わればまたその「正しい」の概念が180度変わり突然その方針が正反対になることなど日常茶飯事です。

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布施、愛語、利行、同時

これら仏教の良き教えでさえ、それがふさわしい場面とそうでない場面があるように思います。

何事もすべては相手ありき、そして時と場合によりけり、更に相手の目指すものによりけり、それにより対応が変わります。それを見誤り相手を見ず画一的に教えを実践をすれば与えることが強欲な搾取者にたかられることになったり、良かれと思ってしたことが相手に逆恨みされたりと。何事も表と裏は常に一体であると思います。

もちろん上級者となればそれを承知し計算済みの上でこちらからわざと仕掛け相手のその負の(邪な)姿を意図的に引き出すこともあるでしょう。

教えや教科書は常にそこに答えが書いてあるものではなく、本来そこには考え方のみが示されたものであり、そしてそこから導き出される答えは人により異なり常に変わるものでもあると思います。

5y=30 の変数 y の値は6ですが、変数 y の値がマイナス6の場合は 5× -6= マイナス30となりその答えは負の値になります。

教えの公式の「定数」の部分は固定で変わりませんが、相手である「変数」の部分は常に変わり、相手が負の場合であれば同じ正の導きが逆に負の拡大に繋がる場合がります。

過去に囚われたまま相手を導くことは時にその判断を大きく間違えることがあるように思います。

良き教えに学びながらも過去に囚われることなく常に変わりゆく「相手の"今の姿"」を見て適時にそれらを正しく実践できるようその心がけを忘れないようにしたいものです。




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end
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