人生に絶望している(とある大学生の自語り)

 これは、中々誰かに自分の気持ちを吐き出すことのできない私にとっての、自分の気持ちの吐き出し先としての役割として書く文章である。ありのままに気持ちを書いているため、きっと読み手にとっては痛いと思うし寒いと思うが、よければ最後まで読んでみてもらえると嬉しい。この文章を最後まで読むことで得られることは何もないと思うが、誰か1人にでも私の話を聞いてもらえたということが、私にとっての救いになるので。



 まず初めに、なぜこの文章を書く気になったのかについて。つい最近メンタルが限界を迎え、ひたすら号泣しつくした後に冷静になった際、自分の気持ちを整理するためにも文章に書き起こしてみるのはいい手段ではないだろうかと考えたからだ。良い子ぶることもせず、マイナスな気持ちや思考もありのままに自分の思いの丈を綴ってみる。


 手始めに、まずは軽く自己紹介してみる。2002年生まれの現在22歳。四国のどこかの県の私立中高一貫校を卒業後、大阪の国公立大学のどこかに進学して現在1人暮らし中。大学に入学して半年ほどでメンタルが限界を迎え、やる気が皆無となって休学し、一留して1年生を2回した。2年生は無事に終えられると思われたがやはり厳しく現在2回目の大学2年生である。家庭は特別貧しくも裕福でもなく、極一般的な家庭だが、有り難いことに生まれ育った環境は恵まれている方。母親も父親の人柄も良く、いわゆる「親ガチャ」も決してハズレではないと思う(少し過保護気味なところが多少懸念点ではあるのだが)。勉強に関しては中の上(自己評価)くらいにはできる。だが、残念なことに顔面に関しては、(世間一般の評価が分からないのだが)良くて中の下ぐらい。今までの人生経験から察するには下の中くらいで、ブサイクに分類されるであろう。これくらいの自己紹介である程度私のなんとなくについては分かるであろうので、では私が人生に絶望している現在に行きつくまでを、ここから書いていこう。


 私が学校というものを苦痛に感じ始めたのがいつからなのか、遡って考えてみる。小学生時代は何も問題ない。なんなら学校に行くのが楽しかった記憶がある。クラス委員長や生徒会などの目立つ役割を自らつとめたほどには、学校生活を楽しんでいた。怪しくなってきたのは中学生の頃だったか。1つ、今の私の形成に影響するとても大きな出来事があった。仲の良かった友達2人が喧嘩し、その喧嘩の仲裁に友達と入っていた時である。2人それぞれの言い分を聞いていた時、片方がぽろっと口にしたのである。「○○ちゃん(喧嘩している相手)さー、性格悪いし!だってこないだ(私)ちゃんがテストで良い成績取れるのは、親にテストの答案見せてもらってるからだとか言ってたし!」と。(私は自分の親が教師として勤めている中学校に進学し、一時期親が校長を勤めていたことがあった。中学時代は基本学年順位トップ10には入る成績であった)親からテストの答案を事前に見せてもらいテストを受けているなんてそんな事実、無論あるわけがない。なんなら現在振り替えると、当時の自分はとても頑張っていたと思う。睡眠時間削って頑張ってるしと。余計に悪いのが、自分が被害妄想が激しく、とても気にしがちな人間であるということがさらなる悲劇だったと思う。ほかの人達もそう思っているんじゃないかと、苦しんだ。自分は頑張ってこの成績を取っているのに。そこで少し勉強への意欲が失われた。
また、更に悪いことに、テストの成績を報告しても母親には「上には上がいるから」、「こんなので満足してはダメ」と言われることが多かった。その言葉を言う前に、せめて一言「頑張ったね」と欲しかっただけなのに。せめて、「頑張ったね、でも…」と逆接として続けてくれれば救われたのに。自分でも自覚はある、その出来事から「褒めて欲しい」という承認欲求を大きく拗らせ始めた。


 高校時代は、演劇部に所属していた。自分から希望して入ったわけではなく、元々友達2人が入部しており、その2人から「部員が足りないから」と誘われたので助っ人として入部した。その2人の友達のうち1人は幼少期からミュージカルを習っており基礎があるので演劇の実力がある。もう1人は、私と幼稚園から高校までずっと学校が同じだったのだが、とても容姿の整っている可愛い子だった。こうしてまた悲劇が生まれる。大会などの他校の演劇部と交流する際、ミュージカルの子は「演技上手いね」と褒められ、幼なじみは「可愛い」と褒められ、そして私は特にふれられることなく存在が空気。自分は決して演劇が上手くもないし、可愛くもない(世間一般でいうブスな自覚がある)ので、褒められるとも思ってはいないのだか、あからさまな扱いの差を体験するとやはり自尊心は傷つくものである。こうして私の心はますますひねくれていく。


 今思えば自分は特別何かに秀でている部分がないのだ。絵が上手いわけでもなく、運動神経が良い方でもない。歌が上手いわけでも、性格が良いわけでもなく、顔が可愛いわけでもなく、何か特技があるわけでもなく。かといって才能もなければ、努力する才能もないのである。3歳ほどの頃からピアノを習っているのだが、私はとても練習嫌いであった。対して姉は努力家で真面目であるため、親から言われなくても練習する人であった。そんな風に何かの分野においても、努力という点においても度々回りのその分野に長けている人を見ては、自分はダメな人間だと自覚することが多かったと思う。


 私は、高校時代、一時期不登校気味(もしくは登校しても保健室に行く)なことがあった。その理由は、現在でも親や高校時代の担任にも真相は知らない。知らないというより、訳があって言えなかったのである。匿名だからこの際言ってしまおう。前述した、幼少期から知り合いの、演劇部の可愛い友達とは高校時代もとても仲良くしていた。私とその友達、後もう1人の合計3人で仲良くしていたグループがあった。結論から言うと、実はその幼少期からの友達の恋愛対象に同姓も含まれており、その幼少期からの友達と、後のもう1人の友達同士が付き合っていたのである。これを知ったのは2人から直接言われたわけではなく、3人でいる時に徐々に2人だけの空間になっていて自分だけ疎外感を感覚え始め、幼馴染が同性も好きであるとは本人から聞いていたため(そういうことも言える関係であった)、そこからLINEのお揃いのアイコン、ツイートの内容、普段の言動などから察する部分もあり、判明したのである。今思うと、自分にも幼い部分があった。私は、「ああ、結局私って要らないんだ。」と思ったのである。その2人が付き合ってるのは別にいい、幼馴染が同性を好きなのも何とも思わない(個人的に同性愛について、一般的に好きな顔・好きな性格など好きなタイプが存在する一環として、好きな性別が存在していると捉えている)。ただ、どうして私に直接「付き合ってる」と報告してくれなかったのだろうか、報告しないのであれば上手く隠して欲しかった。3人でいる時は普通であって欲しかった。友達も少なく、恋愛もしたことない私にとっては、「結局私は1人なのだ」と現実に突きつけられた気がした。
こうして学校に行くことが嫌になった。親や先生にも嫌と言っていいほど「何が原因で学校に行きたくないの?」と聞かれたが、言えるわけがない。全員が全員、同性同士の恋愛に理解があるわけではない。誰が理解があって、誰が理解がないのか分からない以上、友達のことを話して、その話した相手に友達のことを嫌に思われるのは避けたかった。友達は悪くないのに、友達のことを勝手に思い込みが激しいせいで自分から嫌いになったくせに、大切な友達だからこそ、迂闊にもカウンセリングの先生にも言うべきではないと思って永遠に1人で抱え、1人で苦しんでいた。
数ヶ月したら普通に学校に、教室に行くようになったが、そこからは完全にあまり深く周りと関わらなくなった。自分と話す相手が、ブスな自分と話してて不快じゃないだろうか、とか話し声で不快にしてないかな、だとか色々と気にして疲れるようになった。
 今の私の人格ができたのはこのような流れである。


 
 大学に行きたくない。
 
 自分の将来が分からない。

 大学卒業して、やりたいこともなく、就きたい職業もなく、結婚願望もなく、生きがいもなく、無意味に働いて、そんな人生がおそらく何十年かは続いて。

 そんな未来が待っているのに。大学を卒業してしまったら。

 大学に行きたくない。


 それでも中々1歩を踏み出せないのは、やはり自分の中で、「良い大学を卒業し、良い会社に就職し、素敵な相手と結婚し、幸せな家庭を築く」という、いわゆる一般的な幸せの形に囚われているからであろうか。レールを外れることに不安しかない。
 現在、私は21歳であるが、生まれてこの方、恋人というものができたことがない。大学生の集まりでも、よく恋バナに花が咲くが、その時間が苦痛である。正直言って、1度も誰かに好きだと思ったことがない。恋愛を必要だと思ったことがない。でも、それが社会では「異常」だとか「負け組」だと扱われる。自分にとっては、恋愛が存在しないことも、好きだと思ったことがないのも「普通」なのに。ここでも自分は周りと比べて劣っていると思わなければならないのか。

 自分には大学を卒業した後の人生が見えていない。やりたい仕事もなければ、生き甲斐もない。適当な仕事に就職し、生き甲斐もなく生き、恋愛的な意味でなく人間的に人から愛されることもなく孤独に一生を終える、そんな絶望的な人生が待っているということに絶望している。
死にたい・消えたいと思ったことはあるが、本当に死ぬ勇気があるかと問われればNOである。痛い思いをして死にたくはない。だが、このまま生きたいかと言われれば生きていたくはない。

 「大学に行きたくない」と言えば、「では、何故大学に進学したのか?」「大学に進学せずに就職すればよかったのではないか?」と問われるだろう。自分のなかで「興味もなく学ぶ」のか、「熱意もなく働く」のかを天秤にかけた時、「興味もなく学ぶ」方がマシだと考えたのである。文系だし、モラトリアム期間として。だが、高校までは「大学に入る」というとりあえずの目標があったのに、大学に入ってしまえば、次はその先の人生について向き合わなければならない。そこで私は今躓いている。


 突然だが私は、考えても仕方ないことをとりとめもなく考えにふけることが好きである。「宇宙とは一体なんなのか」。地球が宇宙にあるのであれば、では宇宙はどこに存在しているのか。宇宙は本当に無限に広がっているのか。宇宙とは「何処」に存在しているのか。「人間の魂とは、何なのか」。こういうことを考えてる時が、現実を忘れて唯一救われる時間なのかもしれない。かなり中二病であるとは思うが(笑)


 私が今求めているのは、誰かに抱きしめられながら大泣きできることである。1人で大泣きすることがある。自分にそんな日は来るのであろうか。ちゃんと話せる人が現れるのであろうか。
 ネットは匿名である。こんな自語りも、ネットだからこそできる。いざ相談相手を前にしても私は話せない。精神科に行っても何も話せない。相手に思われることを気にしてしまうからである。「この人はこれを職業に生きてるのに、生きがいのない私のことが分かるものか」と考えてしまう。だが、1人で抱えておくとメンタルは崩壊する。私の救いはネットにあるのかもしれない。ほんのわずかでも気持ちが軽くなるような気もする。

 以上、最後まで読んでくれた方が果たして存在するのかは分からないが、たとて数文字でも、数行でも読んでくれた方がいたとしたら、非常に感謝である。突然脈絡のない話が始まったりもする拙い文章ではあるが、自分のありのままに書きたいことが書けたと思う。

これからの人生、どう生きていこうかな。


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