ミラノ風ドリアを食べてからライブを観にいった
サイゼリアのミラノ風ドリアは美味しい。中学生当時読んでいた雑誌に「安ウマ!マックよりサイゼ!」と掲載されていたのを見て「ファミレスなのにこんな安いの!?」と俄然興味を持った。親にせがんで連れていってもらってから夢中になり、高校時代、大学時代とよくお世話になった。晩御飯を家で食べる実家住まいの私にとっては、サイゼといっても重大な気分転換であり、ミラノ風ドリアといっても立派なイタリアンだった。半熟卵が乗った贅沢バージョンが殊の外好きであった。このブログをご覧くださっている皆さんには、ミラノ風ドリアにどんな思い出があるだろうか。
去りし2020年2月某日、東京ドームにてライブを観にいった。それこそミラノ風ドリアが大ご馳走だった頃からずっと、愛してやまないアーティストさんのライブ。友人が余ったチケットを譲ってくれて、夫を誘っていったのだった。
夫はというと、そのアーティストさんは代表的な曲はいくつか知っているものの、あまり興味を持って生きてこなかったらしい。音楽の好みは人それぞれである。一緒に来てくれるだけでもありがたい。
さて、東京ドーム周辺という場所は土地柄ファミレスがとても多い。私たちは普段外食をあまりしないか、するときはスペシャルな感じですることが多いため、付き合っていた頃からファミレスに行ったことがなかったのだ。
しかしお互い、ファミレスは大好きである。なんでも食べたいものにアクセスできる品揃えはもちろん、ドリンクバーや店員さんを呼ぶ押しボタンといった備品も心踊る。サイゼでいったらもちろん間違い探しはマストだ。あれは定期刊行されている間違い探しの中では地球上で一番難しいのではないだろうか。
そして、満を辞してサイゼリアに行ったのである。店の扉を開けた瞬間、暖色の内装に掻き立てられるノスタルジー。私も夫も10年くらい若い心になった。店内は夕刻にも関わらずほぼ満員。これだよね〜〜〜!!これこれ!!といそいそと席に着いた。
私の目当てはもちろん、ミラノ風ドリアだ。礼儀としてメニューにはなんとなく一通り目を通すが、やはり心は決まっている。一方の夫は、彼が学生時代によくサイゼリアで食べていたという肉料理を注文していた。「美味しいものを食べる」というよりも「お腹を満たすため」にご飯を食べていた時期が長かったというが、なるほどこのボリュームとこのお値段はありがたいねと納得する一品であった。
久々に会ったミラノ風ドリア(半熟卵は、あえて乗せなかった)。それはもう「久闊を叙す」と言っても過言でないほどの久方ぶり。だけど記憶の中のミラノ風ドリアと寸分違わぬ出で立ちでミラノ風ドリアは現れたのである。現れてくれたのである。
ああ・・・。あのえんじ色の分厚い陶器のお皿、グツグツと音を立てるホワイトソース、見ただけで柔らかいとわかるチーズ、芳醇な香り・・・。全てが愛おしい。全てが記憶の中で生きていた。変わらないという愛おしさがある。いや、変わっているのかもしれない、だけど記憶の中の美しいミラノ風ドリアを裏切らない形である。変わったことといえば、共に並ぶのが氷水ではなくグラスビールになったことくらいだ。
ふと夫の方を見ると彼もまためちゃくちゃ嬉しそうにしていた。きっと同じような感慨に耽っていたのだろう。互いを見合わせて笑った。
金属のスプーンで口に運ぶと、ハフハフと熱いがとても美味しい。イタリアに実際に行って現地の食事に舌鼓を打ったこともある。しかしこれは全くの別物、別の美味である。本当に美味しい・・・赤と白のソースの奥にある黄色いライスすらも滑らかに味わって、フチの焦げをカリカリやって味わい尽くした。大人になってわかったことだけどめっちゃビールに合う。2杯平らげてしまった。
そうして大変良い気持ちで向かったライブは、今まで見てきた色々なエンターテインメントの中でもかなり上位に感じる素晴らしさであった。培われてきた確かな技術と最新鋭のテクノロジーが融合してまたとない空間を次々に作り出していくさまは圧巻であった。ああ、ここにいる方々の描いた夢と、たゆまぬ努力の先に、私はいるんだなあと思った。人生をかけて作り上げてきた空間を、受け取る側に座っている私。せめて、この人たちの夢の先にいる存在として強く正しく生きたいと、固く願った夜であった。この日がこれからの人生の初日であることを心から嬉しいと思った。
この日から1ヶ月と少ししか経っていない今日、ミラノ風ドリアもライブも遠い存在になっている。
不要不急ってなんだろうか。
ミラノ風ドリアを食べていた日々に、重要な話をした局面はない。しかしながら、私の心にとても優しい記憶をもたらす味はミラノ風ドリアにある。
この日コンサートに行けたアーティストさんの曲を聞いていた日々は、様々な変化を伴っていた。どんな時も、曲や声や佇まいに勇気をもらって生きてきた。
物理的に、生きる上で欠かせない栄養素ではないかもしれない。だけど、今日を生きることができている私を作る上で、欠かせない存在であることは間違いない。299円の一皿にどれほどの人が元気をもらってきただろうか。私も夫も、そのうちの一人である。
穏やかな日々、変わらない日々というものは意識せずとも貴重なはずで、だけどちょっぴりそのことを忘れてしまうような存在であった。誤解を恐れずにいえば、忘れるくらいが一番穏やかなのかもしれないと思う今日この頃である。
全部乗り越えて、ミラノ風ドリアが変わらぬ出で立ちで机に置かれたら。
嬉しくて泣いちゃうかもしれないな。
ミラノ風ドリア、大好き。必ずまた食べにいくからね。
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