いきかた

母(70)が倒れたと、救急隊から電話があった。幸いそれ自体はたいしたことはなく、その日のうちに帰宅したのだが、母自身も娘である私も、色々考えるキッカケになった。

電車の中で失神したらしく、近くにいた若い人が助けてくれて、駅員さんを呼んでくれて、たくさんの人が助けてくれたそうだ。本人は、「日本ってやっぱり素晴らしい」と、やや大袈裟なことを言っていたけれど、ホントにそう。
オマケに生まれて初めて点滴を打ったんだそうで、そんなに健康だったのね、と驚嘆。

とは言え短時間ながら意識を失った実績のおかげで、検査三昧の日々が始まった。丁度良いから調べなはれ、と推奨したら、せっせと真面目に病院通い。気管支に少し、肺に少し、不整脈が…と、ポロポロ出てくる結果を報告してくれる。今まで元気すぎたから、まぁ、年齢なりに身体も古びていくんだし、そういうものと思って付き合っていくしかないよね、なんて話していたら。
ある日病院で最新機器をお勧めされたと。
簡単な手術で小さなデバイスを身体に埋め込み、モニターするという。また失神したときにバイタルデータがかかりつけ医に届いているので救命率が上がる、らしい。

本人も、あんまり釈然としないようで、どう思う?と言う。
点滴もこないだ初めて打ったような人に、いきなりデバイス埋め込みはハードル高すぎやしませんか?と思いつつ、「単に少しでも命長らえたい、と言うならあっても良いかもしれないけど、ピンピンコロリを目指すなら要らないんじゃないの?」と言う。まぁ、他の弟妹の意見も聞いてみて、と言って、その日の会話はおしまい。

結局その機器はお断りしたらしい。

私は生き方も逝き方も、できる限り自分で選びたいと思うし、母にもそうしてほしいと思う。彼女の希望がどうなのか、それに私たち子供が応えられるのか、それを互いに確認し合いながらいけると良いなと思う。

どういうわけか私の祖父母はみんな長患いすることなく綺麗に逝った。彼ら彼女らは、孫の目からもそういう意思を持っていたように思えた。特に母の父は、自宅で死ぬと思い定めていてその通りにした。看取った祖母に「長いお付き合いだったね」と言って死ぬなんて、カッコ良すぎてビックリした。享年92。

どう逝くかを考えながら生きるフェーズに入った母を間近に見ながら、私もどう生きるかを考える。

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