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5月17日 日記

最近言葉を発する時、それは果たして僕自身の言葉かと、悩む瞬間がある。

それは志望動機に嘘八百を無心で書き連ねている時も、気を遣う必要のない誰かと話している時も、ふと頭の片隅をよぎる。

今話している言葉や、考えは誰かのもので、僕はその媒介者でしかないのではないか。

実際、僕が空っぽの人間であることは僕自身が熟知しているので、そのスペースに知識や思想を片っ端から詰め込むことで埋めようとしてきた。だが、それは消化されないまま何年もそこに留まるだけで、結局どれもこれも本心にはならなかったのではないか、という不安がある。

話してきた言葉の歴史を振り返ると、変な語尾は友達のパクリだったし、痛がる様はyoutuberからの引用だった。

人はそれを「影響」という2文字に丸め込むが、持たざる者として、これほど助かる言葉もない。それこそ多彩なバックグラウンドを持つ人間はアイデアの出所を探られにくいメリットがあるし、僕もそうなりたいと思っている。

だから、大学生になってからは無理矢理にでも情報を詰め込む、というインプット法を多用してきた。体力に限度はあれど、それは一定の成果を成した。

話を作品に移すと、何かを作るときに、込める思想や文化はあれど、それを媒介として誰かに何かを伝えようとしたことは一度もないのかもしれない。作品を通して言いたいことは何かと問われたら、僕は答えられない。というか、何もないです。が、正解だと思う。

作品至上主義なことはあるが、いずれにせよ本心で言いたいことなんて持ち合わせていないし、もしくは本心の部分がそもそも、という可能性もある。

そういえば、いつかのインタビューでくるりの岸田繁氏が「借り物の音楽」という表現を使っていたことを思い出した。
いい言葉だなと思う。

人は完全な0から1を作り出すことはできない。多彩なバックグラウンドから微小な0.1をかき集めて1にする。これを消化と呼べるのであれば、言葉もそれに値するのではないだろうか。

ゼミの研究進捗で田代くんは日本語が変ですねと言われたので、これも借り物のせいにして逃れられないだろうか考えていた。

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