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覚えているうちに(8月15日)

祖母の話

私の祖母が話してくれたことを残しておこう。
ここで出てくる祖母は父方の祖母で、わたしと誕生日が同じでうちの末弟と干支が同じ祖母だ。

戦時の話になるので直接的な表現が出てきたり、いい気持ちにはなれないことが予想されます。読みたい方、興味のある方に読んでいただければと思います。

小学校高学年になると学芸会で戦争をテーマにした題材の劇をしたり、
中学校では3年生になると合唱コンの曲リストが戦争や平和のことを歌った曲になった。

小学校の頃には昔の暮らしや遊び調べとか、国語の教科書の題材に関連して取材してくるなんて宿題もあった。そのたびにわたしは祖母のもとへ行っていた。今思えばかなり残酷なことをしていたように思う。子どもの無知故になんの配慮もない直球な聞き方をしていたのだろうということは想像に難くない。

祖母は普段と変わらず話してくれた。逆にいえば、普段はそんな経験をしてきたことを感じさせない人だった。

映画や小説、教科書の中でしか知らない世界がそこにはあった。
お弁当の時間に校長先生が見回りにきて食事の中身を点検していく。こっそりおかずを入れてもらっている人は米の下に隠したり隠れて食べていたりしたそうだ。次第に食事は、校庭を耕してさつまいもを作ってふかし芋となりしまいには蔓まで食べていたという。

彼女のすねには傷跡が残っている。空襲の際に飛散した破片が当たって怪我をしたそうだ。近所の眼科に行って破片の摘出、傷口の縫合をしてもらったとのこと。抜糸や消毒のために痛む足を引きずって通院した。「専門外なのにちょちょちょとやってくれてなあ。上手いもんだよ。」と感心したという。

このときの襲撃で彼女は目の前で母親を亡くしている。母親の背中に爆弾の破片が刺さっていて、胸に抱いていた生まれたばかりの妹の泣き声だけが返ってきたという。

母を亡くし、幼い妹と二人。当時14歳だった彼女は当然学校に行けるわけもなく、妹の世話をして過ごしていたという。お粥よりも薄く煮出した米の汁を飲ませていたという。近くに住んでいたという先生や校長先生も「学校にきなさい」とは言いに来ず、見逃してくれていたという。

母が亡くなれどきちんと葬儀もできず、日中に火葬もできず
近所の人の手を借りて夜間に山間で地域の人たちで弔っていたそうだ。

もう90近い祖母だが、胃が若い。牛丼もハンバーガーもポテトもケーキも食べる。この頃に充分に食べられなかったことで、あるときにあるだけ食べてしまうようだ。残しておく、明日の分ということが難しいそうだ。本人曰く「食べられなくなった人から死んでいく」とのことでまだ生きていたいという気持ちの表れかとこのときのわたしは解釈していた。今改めて文字にしながら、当時にも同じことが言えたのだろうなということにようやく気がついた。

きっと話してくれたこれらはたった一部なのだろうと思う。祖父に先立たれ気丈に振る舞っていた祖母も一気に認知機能の衰えが表出するようになった。前回の帰省の時にはまだ孫の名前を覚えていた。所在や年齢、職については覚えていなかった。同じ話を以前より頻繁にくり返すようになり、その内容の多くは子どもの頃の話だった。何年か前に聞いた話であっても、より鮮明になっていることも多い。聞いたことのない話も多く、恐らく父にも話していないものもあった。父に知っているか確認はとっていないものの、今後わたしから確認する機会もないかもしれない。

わたし自身には、経験が伴ったものではなく見聞きしただけの話である。
言い方を変えれば、私たちが今まで経験せずに済むように懸命に取りはからってくれた人たちがいるということだ。遠ざけてもらっていたが故にその恐ろしさまで忘れ、……。
どうしたって浅はかにしかならない持論は一旦おいておこう。

書き方で誤解をされないように補足しておく、祖母も妹に当たるおばさんも元気に過ごしている。

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