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結果がすべてと言える人間でありたかった

人生歩んできた中で、様々なことに取り組んできました。そして、どんな取り組みであっても、必ず過程と結果がついてきます。

勉強でも、スポーツでも、恋愛でも、仕事でも、日々の生活でも。

必ず過程と結果で構成されています。

僕は過程も結果、どっちの方が大事かと言われると、正直大差ないとは思っています。どちらかでも、疎かにしてしまうと、結果痛い目にあってきましたから。甲乙はつけられません。

しかし、僕がどちらも大事だと言っても、僕を評価してくれる人達からすると、どちらを重要視するのか、その比重は変わってきます。

僕の感覚的に、その比重は僕が歳を重ねるごとに変わってきています。過程から結果へと。

小さい頃は、たとえ何事もうまくいかなかったとしても、それまでの頑張り、過程を認めてくれます。結果がすべてじゃない。そうやってまわりから励ましの言葉を貰います。その言葉のおかげで多くの失敗から救われてきたとは思います。

そこから、歳を重ねるにつれて、結果に重きを置かれるようになります。僕は大学受験が、結果が過程を追い抜いた瞬間だと思っています。このタイミングは人によって違います。もっと早い段階でその世界にいた人も大勢いたとは思います。

それまでも学校でテストはありましたし、部活動でスポーツもやっていました。当然、順位というわかりやすい結果が出ますが、それでもまだ、過程を踏まえてしっかり評価されていたような感じがします。

ただ、大学受験からは違います。結果がすべて。いくら勉強した、自分では頑張ったと言えど、志望校に受かるかどうかがすべて。落ちたとしても、「落ちたけどお前はよく頑張ったよ、よしよし」なんて言ってもらえません。結果がすべて。

就職でもそう。100社受けて、100社とも落ちる。過程を見れば、回数を重ねた分だけ、経験が積まれているようには感じます。だけど、この事実を見た試験官は、「この子はこれだけの経験を重ねている、採用だ!」とはならず、むしろただ失敗を重ねているだけの能無しと判断するでしょう。だって、結果が全てですから。評価する側からすると、過程は重要じゃない。さすがにこの例は極端ですけど。

社会人になって思うのは、やっぱり結果は大事。過程がないがしろにされるかと言えばそうではないですけど、結果が出ないと過程自体も評価されにくい。うまくいかないことが増えると、「頑張ってはいるのに…」とどうしても落ち込むことがあります。でも、結果が出ていないから、その頑張りに対してよくやったとは言われにくい。

過程を評価してもらうには、やっぱり結果が必要。でも、結果がでないまでの間、どうしても自分は頑張っているという証拠が欲しくなります。結果がすべて。そうわかってはいますが、それでも頑張ってると言ってももらいたい。結果がすべてと割り切れるほど、僕は強くありませんでしたから。

結果を出していないのに、頑張りは認めてほしい。それが通用しないのがわかっているのに、求めてしまうのはたぶん僕が弱いからでしょう。

結果がすべてと、強く言える人間でありたかった。最近本当にそう思います。


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