沼からの脱出
ゼミ後半戦
無事にゼミ前半の「Diary Logging」が終わり、現在後半戦の真っ最中です。
(「記録をしない記録」は思ったより好評だった)(うれしい)
今回(後半)も課題が出されているが、
"テクノロジー"を使っての制作を行う(題材は自由)
というあまりにも大雑把な内容になっている。
合評は7/25に迫っている中、なにをしていても脳裏にチラつく「テクノロジー」という課題は、まるで恋人みたいな存在と化しているので整理のために書いてみる。
テクノロジーの解釈について
ここの解釈が先生とズレていたら評価めっちゃ低いのでは??と思う。
まあそんなズレをいかに埋めれるかなんですが~~
まず概念をネットで調べるところから
重たすぎる、軽すぎる。
大きすぎる、小さすぎる。
そのような物事に対して「人間が扱いやすくする」
もしくは、「人間の能力を拡張する」モノ。
スマホ!インターネット!最新技術!だけじゃなくて、私たちの先祖が棒と石でツルハシを作ったように、自然にあるものを素朴な道具にするところからテクノロジーは始まっているのでは、と考えた。
テクノロジーは、沼男
しかし、今の時代のテクノロジーについて考えてみると
チャットGPTは課題レポートの文章を考えてくれて、
エスカレーターは乗ってしまえば歩かなくても進んでいく。
「いいよ~やっとくから~」
「歩くの疲れるよね~連れてってあげるよ~」
まるで沼男ですよ!!!
いつの間にかテクノロジーは、「思考力」や「歩行」などという本来の人間性を削ぐものになり、わたしたちはテクノロジーの奴隷になっている、、
テクノロジーに依存せず、テクノロジーに使われない。
文明批評家のイヴァン・イリイチが提唱した概念「コンヴィヴィアリティ(自立共生)」を足がかりに、これからの人間とテクノロジーのあり方について書かれている書籍より↓
課題のテーマ
私は毎日、日記をつけている。そして写真も動画もよく撮る。
ところが、記録もしていないのに、ふと思い出すことがある。
記録をしていなくとも、忘れられないことがある。
それで今回、機械的テクノロジーの「記録機能」に頼らず、人間本来の「記憶機能」に焦点を当てて制作をしようと思った。
作品を通して誰かの記憶に触れ、同じような体験に共感し、その時間を分かち合う。
脳みそにはしっかり記憶されていることと、これからも私たちは、記憶機能(テクノロジー)と共に生きるということの再確認をする。
展示方法はまだ模索中だけど、とりあえず決意表明できてよかった。
もしかしたら、あの子の記憶にもあなたが影響しているかも。
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