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理解と共感、どうちがってどうまざってるんだろう

縦方向のつながりを広げていった結果、理解はできても共感はできないというところがあるなぁと思うところがあった。自分の中で結構あいまいに混ざってた。理解と共感、どう違ってるんだろう、でもなんで混ざったんだろう。


1.縦方向のつながり幅を広げたい

大学入学してから、卒業して4年くらいの8年間、つまりごく最近まで自分の中で「縦方向のつながりの幅を広げたい」という信念が結構あった。
これはもともと一般大学生のコミュニティがおなじレベル感(趣味、服装、好きな遊びの種類など)ばかりに伸びていて、おもしろくないという反発から出てきたものだった。

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縦方向の感覚の図

2.縦方向の”理解”

縦方向のつながりを広げる信念をもとに大学時代~昨年ごろまでにいろいろな人と会っていろいろ話を聞いたり話したりした。

●学生時代
サー室のヘビーユーザー(人と気楽に会い話すとはどういうことか知れた)
ボランティアマジクラスタ(社会活動の面白さを知れた)
学術書ばっかり読んでてよく社会学の話になる人(知らない分野の知的好奇心を満たされる)
などなど

●大学卒業後
よくわからない小さなバーの人のなかなかすごい生活の仕方(生き方の視野が広がった)
のんびりゆったりできるカフェ(よくいる)
フリーランスの方々がたむろしているシェアハウス(とても楽しそうであこがれた)

だが、この時点ではそれぞれがどういうものを大切にしていて、どう考えてどう動いているかを理解する、――当事者であろうがなかろうがどうなっているかをただ知ること――にがメインにだった。無意識的には共感してることもあったけど…あまり共感を意識していなかった。

3.縦方向の"共感?"

この一方で、2016年ごろから友達に誘われてかかわりだしたボランティアでは、「共感」が大切にされていた。
これは、感覚的に「わかる」とか、見ている視点が近いとか、落ち着くとか、そういう心が近い感覚。

この共感を軸にすると相手の目線と自分の目線が近くにいる、つまり共感する部分が多いところによくなじんでいた。2.で書いたつながりでも、共感できる人、場所には長い時間いれたし、その逆の人、場所からは比較的短時間で去っていたし、いづらさを感じた。

共感できるものがあれば、そうじゃないものがある。

そう最近気づいたとき、縦方向のつながりをやみくもに広げていくのは、そのそれぞれに共感しきれなくなるので、多分限界があるなと気づいた。比較的共感ができるつながりが多かったから色々行けてたんだなとも思った。
そして横のつながりを大学生や社会人がしていきがちな理由もわかった。
無理くり縦方向のつながりの幅を広げるのはやめようと思った。
共感できる場所、人というものの前提で動いていこうと思った。

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4.理解と共感のちがい

理解と共感は違うんだなと思ったので、どこがどう違うのか考えた。
例えば魚で考えてみよう。

●理解
魚が好きな人と魚が嫌いな人、どちらもいるということを理解できる
→当事者性がいらない
魚が好きな人が魚が嫌いなことを理解することもできる
→おなじ立場じゃなくていい

●共感
魚が好きということに共感しながらしながら、魚が嫌いということに共感することはできない。
→当事者性がいる(自分のたちが以外はわからない)

●違い
理解はその場ですぐに、あるいは一応無限に増やせる。

共感は、その時持っている当事者性の中から選ぶのでそれ以外には増やせない。共感の幅の確保には経験をしてその感覚を知ること、感じることが必要になる。
経験といっても、あらゆる経験を自力でするのは難しく、また時間がかかる。多くの人は疑似体験として、ドラマとか映画とかで経験して、共感できるポイントを増やしているんじゃないかなぁ。

5.理解と共感、まぜないように

このように、理解と共感ってだいぶ違う。が、結構混同されて、お互いに行き違いが生じていることが多いと思う。
典型的な例として、パートナー間の会話バトルを例にかんがえてみる。

パターン1:理解も共感もない例

A.今日急に雪降ってきて傘がなくてとても大変だった。つらい…さむい...
B.あしたなんようびだっけぇー
A.ひとのはなしを、、きけ!

理解も共感もない、論外。ただパートナー以外の関係性によっては結構ありがちな気がする。
…ここまでだと逆にふっきれるかもしれない…

パターン2:理解するが共感がない例

A.今日急に雪降ってきて傘がなくてとても大変だった。つらい…さむい...
B.雪の中走ってくるんじゃなくてコンビニで傘かって来ればよかったのに
A.ちがう、そういうことじゃない、わかってない怒
B.???????

この場合、Aは共感が欲しかった(当事者目線が欲しかった)のに対し、Bは代替案(解決策、当事者目線でない)を提示した。
傘がなく帰ってきた事実を理解はしている。ありがちなパターン(?)。
ここでは、もめるんじゃなく以下の対応が建設的かもしれない。

Aの場合:そうじゃなくて、つらい、寒いところに共感してほしかったんだ。(もしそれでも共感できないならこれらで(本や映画などを渡す)で共感できるようになって!)
Bの場合:そうか―それはつらい、ここに1000kWの暖房があるからあったまるといいよ

パターン3.共感があるが理解がない場合

A.やばい、大雪過ぎて家に帰れない、どうしよう
B.ええ、それはつらい、きついなーそれ
A.どうしよう
B.あーつらい、その気持ちめっちゃわかるつらい
A.どうしよう(怒)
B.?

緊急的な事態などで、共感だけだと話が進まないことがある(この場合優柔不断に見える)
共感力が高い→優柔不断という図式とはまた違う気がするけど

6.理解のない共感はあるのか

今回書いてみて、理解のない共感があるのかという点に自分は結構引っかかった。
理解の上で共感があるとする考えならそもそもこれはないことにはなるし、上の例では軽く優柔不断っぽく見えるとか流しちゃったけど、理解が不十分なままで共感するみたいなことはある気がする。

最近オンラインで人と会って仲良くなる時に、そこそこ深く長く話しても、オフラインであって同じような話をした場合より、明らかにどういうレベルの行動をとればいいのかわからないことが多い。
その人の感覚、価値観に共感はできても、それよりもっと手前のそもそもどういう人なのか、がオンラインだけだとどうしても理解しにくくなってるからなのかなと思った。

理解のない共感についてはちょっと色々はなしたりしらべたりしてみたいなぁ。