『平成維震軍「覇」道に生きた男たち 』読みました。
『平成維震軍「覇」道に生きた男たち 』
共者:越中詩郎。小林邦昭。木村健悟。ザ・グレート・カブキ。青柳政司。齋藤彰俊。AKIRA。
内容紹介
“本隊”とは真逆の視点から90年代の新日本プロレスを紐解く。(帯より)
平成維震軍、知ってますか?
などと言っている俺もそれほど詳しいわけではない。
ありがたいことに本書の冒頭数ページにわたって平成維震軍とはなんだったのか、結成から解散までの起動をのせてくれている。
その後に平成維震軍だった7名の証言が続く。
冒頭で全ての流れを知っているので、とっぱちからネタバレしているとも思えるのがどうなのかと思うが、一応さらりと記して起きたい。
そもそもの始まりは、ドア、だ。
新日本に参戦していた空手団体『誠心会館』の青柳政司館長に伴っていた門下生、松井哲悟が控室のドアを締めた瞬間、小林邦昭が「ドアの閉め方が悪い」とからみ、松井が口答えをしたため制裁。
その後、殴打事件に不満を抱いた誠心会館の門下生が抗議したが小林邦昭は取り合わなかった。
そのため、大阪府立体育館大会の試合前に誠心会館勢が小林を襲撃。その上で誠心会館の東京進出となる自主興行への来場を要求。
不意打ちを喰らった小林は3週間の負傷を負ったものの、「誠心会館には覚悟しておいてほしい。ゴーサインが出たら、いつでもどもでもやってやる」と抗争開始を宣言。
一方、青柳館長は新日本の契約選手であり、門下生の方を一方的に持つことはできない立場にあった。
板挟みになった青柳館長は、小林襲撃を指示したのが松井の同級生であり、すでにインディーズ団体でプロレス経験のある齋藤彰俊であることを明かし、自体の収束を務めることを約束する。
誠心会館自主興行の試合後、青柳は小林を襲撃した弟子たちと齋藤らをリングに上げて制裁をくわえ、抗争を思いとどまるように説得。
しかし、それでも彼らは引き下がらず、青柳館長は苦渋の決断の末、抗争を許可する。
92年1・4東京ドーム大会第2試合終了後、齋藤らはリングに上がり挑戦状を読み上げた。
こうして抗争は確実なものとなった。
1月30日、大田区体育館大会にて、抗争の火種となった小林と、誠心会館代表齋藤による異種格闘技が行われた。
それも正式な試合としてではなく、全試合終了後、観たいお客さんだけ残ってくださいという、番外試合として行われた。
結果は齋藤のTKO勝利。
2月8日、札幌中島体育センター大会にて行われた抗争2試合目は、負傷した小林に変わり、若手だった小原道由。
そして齋藤は小原も返り討ちにしてしまう。
この連敗を受け、新日本サイドからは選手会長だった越中詩郎が抗争に乗り出し、2月10の名古屋レインボーホール大会で、復帰した小林をタッグを組み、齋藤&田尻茂一と対戦。
結果は越中が田尻に勝利。
新日本側がようやく一矢報いる形になったものの、試合後もいたぶられる田尻を目にし、ついに青柳館長がたちあがり、これまでも中立から誠心会館サイドとして抗争に加わる。
その後、越中VS齋藤の異種格闘技戦が行われ、齋藤が勝利。
後がない新日本は、越中・小林のコンビが3月9日に京都府立体育館大会にて異種格闘技タッグマッチに望んだ。
この日は齋藤がとちゅう目の負傷をしてしまい試合続行困難となり、青柳館長の要望によりセコンドの来原圭吾が緊急代打として参加。
その来原を越中がくだし、新日サイドの勝利に終わった。
そして誠心会館の要求を受け、ついに最終決着戦が組まれることになった。
4月30日、場所は両国国技館。
この決着戦に際し、小林は「己の進退を懸ける」と発言すると、青柳館長も「誠心会館の看板を懸ける」とこ呼応。
まず第1ラウンドの両国大会では流血戦の末に小林が勝利し誠心会館の看板を奪い、第2ラウンドの千葉大会でも青柳館長を撃破し、抗争は新日本サイドの完勝にに終わった。
お気づきだろうか?
まだ『平成維震軍』の『平』の字もでてきていなことを。
当時現場監督であった長州力はこの抗争劇での誠心会館勢を高く評価し、その健闘ぶりを称え、千葉大会試合終了後、看板を返却。
しかしそれをよしとしなかった青柳館長は「勝って看板を取り戻す」と長州力に突き返し、改めて看板奪回のための舞台を新日本に要求した。
新日サイドは「すでに抗争は決着した」としてそれを拒否。
そこで青柳館長は誠心会館自主興行を6月9日に名古屋国際会議場で開催するので、看板を奪った越中、小林に参戦を呼びかけた。
これに答えた両名は自主興行に参戦、青柳館長と小林の一騎打ちは両者レフリーストップの引き分けに終わったものの、小林は青柳館長の健闘を称えて看板を返却し、足かけ半年に及ぶ抗争は終結した。
しかし自体は別の形で進展する。
「会社に無断で誠心会館の興行に参戦した」として、小林、越中の行動が選手会で問題視され、両名はそれぞれ選手会長、副会長の職から解任されてしまう。
この処分に納得のいかない越中と小林は、選手会から脱退を表明、そして選手会に対して対決姿勢を取ること宣言。
こうして小林が作った火種は誠心会館との抗争から一転、新日本内部の抗争に発展する。
そして越中と新選手会長蝶野正洋が一騎打ちで激突。
小林も馳浩と一騎打ちを組まれていたが、大腸ガンが発覚したため欠場となった。
たった一人の反乱となってしまった越中に、それまで同情的な立場をとっていた木村健吾が助っ人として越中と共闘。
そして8月7日。愛知県体育館大会に誠心会館の青柳館長と齋藤が来場。
青柳館長は木村&越中VS蝶野&飯塚孝之(現・高史)戦前にリングにあがり、自主興行参戦の感謝を示すため花束を贈呈した。
この行動が蝶野たちの怒りに触れ、リングにあがるなり越中&木村と乱戦状態となった。
この時、青柳館長と齋藤は越中&木村に加勢、試合後も乱戦が繰り広げられた。
バックステージに戻ると、かつて抗争を繰り広げた越中らと共闘を表明。
そして誕生したのが『平成維震軍』
ではなく、後にマスコミから『反選手会同盟』と呼ばれるユニットである。
5人の侍となった反選手会同盟は本隊と抗争を繰り広げ、たわけではなく、SWS崩壊後WARを旗揚げしていた天龍源一郎の「新日本の長州、猪木と対戦したい」という発言に噛みついた。
第1ラウンド、第2ラウンドと快勝を収めたものの、第3ラウンドで6人タッグで越中が天龍に敗れてしまう。
これで終わる反選手会同盟ではない。
WARで天龍と敵対関係にあったザ・グレート・カブキが反選手会同盟に加入。
戦力を増強した反選手会同盟は新日本の興行でも走り続け、ついに越中と天龍のシングルマッチが組まれた。
その後も反選手会同盟の快進撃は続き、欠場していた小林が復帰し、ついに自主興行を開催するまでに至る。
その後、本隊を裏切って若手だった小原が加入。
さらにレイジング・スタッフを離脱した後藤達俊も加入。
こうして7人の侍となった反選手会同盟は、ユニット名を『平成維震軍』に改称し、ここに平成維震軍が誕生した。
さらりと書くつもりがさらりといかなかった。
しかも誕生までで力尽きてしまった。(本書では誕生以前から解散までちゃんと説明しているのでそっちを読んでください)
正直、プロレス本を2冊ほど読んだので、
「そういや平成維震軍のヤツもあったな。この際だから読んどくか」
ぐらいの軽い気持ちで読み始めた。
はっきり言って、この本には熱がある。
そして夢がある。
火種であった小林邦昭。
この人は初代タイガーマスクのマスクを破ったことで『虎ハンター』の異名がつき、ブレイクした。
越中詩郎は元々は全日本プロレスでデビューしたものの、海外遠征でメキシコに行かされ、放置されてしまったような状況になり、引き抜かれる形で新日本に移籍。
その後は高田伸彦(現・延彦。この当時は改名していたかも新米)と抗争を繰り広げ多くの支持を得た。
しかし誠心会館と抗争をはじめた当初、二人、そしてその後加入した木村健吾も盛りを過ぎ、試合も前の方、このまま中堅レスラーとして終わるか、といった時期だったのだ。
それが反選手会同盟をへて平成維震軍となり、自主興行まで行い、その自主興行では、WAR&レイジングスタッフ連合軍との対抗戦を行い、闘魂三銃士をはじめとする当時の新日本の主力勢が出場しない興行を超満員札止めまでにした。
天龍との一騎打も、本隊と反目していた越中が年内最終試合のメインを飾った、というの事実こそ、92年の主役が反選手会同盟であったことを証明している。(本書より)
青柳館長もプロレスラーになりたかったけど、
当時の入門するには身長180㎝が必要、という規定によりあきらめていた。
齋藤も同じくプロレスラーになりたい、という夢があった。
終わる前に咲かしたもうひと花、そして夢を叶えた2人。
平成維震軍というユニットは、間違いなくひとつの時代を築いたのだ。
そこには熱があり、夢があったのだ。
人生の盛りを過ぎたかな、って思っている人こそ、この本を読むべきなのだ。
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