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“ わたし ”という性

多様性を謳う現代において、知識としてLGBTQ+のことは知っておかねば、という思いはありつつも当事者になるまで真剣に向き合ってこれなかった。
私も心のどこかで他人事と思っていたのかもしれない。
ひとりの人間を愛し尊重することと、知ることは同義だと思っている。

これは、自分への反省と謝罪。

自分のセクシャリティについて悩む機会が増えた。
人との恋愛が上手くいかないな、という悩みは10代の頃からずっとあった。


これまでの私は、男性嫌悪が強めのパンセクシャル且つノンセクシャルを自認していた。
つまり、どんな性別の人も好きになるけど、性的欲求は抱かない、と。


少し違うかもしれない、と最近思うようになった。


きっかけは2つ。
今年の冬に初めて女性とお付き合いしたこと。
とある男性から好意を寄せられたこと。



とある女性と出会って、私は「人を愛する感覚」を知った。


その人を幸せにしたい。
一緒に幸せになりたい。
その人のことをたくさん知りたい。
頭を撫でて欲しい。手を繋ぎたい。ハグをしたい。
手や顔に触れてみたい。
叶うのならば、キスをしてみたい。


そんな欲求を、彼女に抱いた。
人とお付き合いしてこんな事を思ったのは彼女が初めて。


私、性的欲求なかったんじゃないの?と自分でも混乱した。
なにより、ないと思ってたものがあるかもしれないとわかった時の自分の気持ち悪さに耐えられなかった。



ある日、関わりの長い、もはや腐れ縁のような仲の男性からお誘いがあり、一緒に夕食を食べた。

彼とは過去に2回お付き合いしてお別れしているが、今は友達としてお互い仲良くやれている。


そんな彼に、自分のセクシャリティの悩みを打ち明けた。
その時、相談に乗ってくれたと同時に、朋ちゃんの事がやっぱり好きなんだ、とも伝えてくれた。


その時抱いた感情は「私を好いてくれる人がいて嬉しい」と「困ったな」だった。
困ったな、というのは、彼に一切恋愛感情を抱けないことと、彼の気持ちに応えられない申し訳なさ。



思い返してみると、私は男性を恋愛的な意味で好きになれたことがない、かもしれない。

頭を撫でられたり、手を繋いだりしてドキドキすることもあったけれど、あれは「嬉しい」というよりも「こうすることで性的欲求を抱かれたらどうしよう」という恐怖と、恋人らしい事をするのに憧れてやってみたかった、という好奇心からだと思う。



今はほぼ縁が切れている同性の親友には、恋愛感情に近しいものを度々抱いていた。

隙あらば手を繋ぎたかったし、ハグができると幸せだった。
もっと触れたい、もっと一緒にいたい、もっと知りたい。でも大切だから踏み込めない。

恋愛的な意味で彼女を好きになってしまうと彼女を困らせることを知っていたから、自分でブレーキをかけていた。



腐れ縁の彼に相談した時に朋ちゃんはこれかもしれないね、と提示されたセクシャリティ。

それがデミロマンティック且つデミセクシュアル

デミロマンティック(demiromantic)とは、恋愛感情を滅多に抱かないのですが、「強い感情的な絆や、信頼関係が築かれている関係」の人に対して稀に恋愛感情を抱くセクシュアリティです。

デミセクシュアル(demisexual)は、他者に対して基本的に性的欲求を抱くことはありませんが、強い愛情や深い友情を持った相手に対してなど、ごく一部の場合に性的な欲求を抱くこともあるセクシュアリティです。「半性愛」とも呼ばれています。


あれから自分でも色々調べてみたけど、今の自分にしっくりくるのはこの2つだ。
似て非なるものだが、両方を兼ね備える人もいるらしい。

なるほど、私って自分が思っていた以上にマイノリティ側なのかもしれない。


自分への解像度が上がった、25歳の冬。

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