見出し画像

「チェアワークの深さを探求する」を探求する(私なりに) その1

少し前になりますが5月22日にデビ・アダムス(Deborah Fishbein Adams)さんのワークショップに参加してきました。
主催者は石井ゆりこさん。私がアイルランドに行く前にお世話になっていたアレクサンダーテクニーク教師です。
今年の3月にアイルランドから戻り、ご挨拶に伺った際に今回のワークショップを計画していることをおしえていただきました。

これからこのワークショップに関することを書いていこうと思います。
と言っても、何が行われたなどのレポートではなく、ワークショップを経験してこんなことを考えたり、思い出したりした、という感じの文章になりそうです。
どこまで書くのかわかりませんが、飽きるまで書いてみます。

ワークショップの概要

まずワークショップの講師であるデビ・アダムスさんについて。
プロフィールや人となりについては石井ゆり子さんの書いたものを引用します。私は今回初めてお会いしました。

ピアニストであるデビ・アダムスさんは、手の故障がきっかけでアレクサンダー・テクニークを学びはじめたそうです。
デビは、ボストン音楽院で、長くアレクサンダー・テクニークを教えており、2012年からは音楽院のなかにアレクサンダー・テクニークのトレーニングコースをつくり、そのディレクターをされています。今は新しいアレクサンダー教師たちを輩出しています。
FMアレクサンダーの本をぼろぼろになるまで読み込んでおり、また周辺分野の勉強も続けておられます。アーティストであるのと同時に、考えることや研究することを続け、実践と感性と考えをつなげてきた人。どんな質問にも真摯に答えてくれる先生です。

https://littlesounds.com/debi2024_for_teachers_and_trainees/


私が今回参加したのは『チェアワークの深さを探求する』と題されたワークショップです。ワークショップの説明文が私にとってはかなり衝撃的でぱっと読んでこれにしようと決めました。
私がどんなところに驚いたのか。改めて思い出しながら書いてみます。

なぜ参加したのか?

私が目にして驚いたのは次の文章です。

近年、多くのアレクサンダー・テクニークの教師がチェア・ワーク(座ったり立ったりするワーク)から遠ざかっています。”正しく “座ったり立ったりすることが目的であるかのような印象を与えるとよくないからという理由で。
しかし私は、チェアワークは、アレクサンダーの概念を紹介するための、豊かで価値のあるワークだと信じています。

https://littlesounds.com/debi2024_for_teachers_and_trainees/

まず、最初の1文のインパクトが大きかった。
そこには《近年、多くのアレクサンダー・テクニークの教師がチェアワーク(座ったり立ったりするワーク)から遠ざかっています。》と書いてあります。

なぜそんなに驚いたのかといえば、私がこれまで見て、体験してきたことと、書かれていることの間に大きなズレがあったからです。もちろんそれはあくまで私がこれまで体験したことに過ぎないわけですが、自分の経験しか参照するところがない身としてはなんというか「え!へぇー!?」という声にならない感じがありました。
というのも、私が学んだ学校では結構チェアワークをやっていたからです。それに過去に参加したいくつかのワークショップでは、参加者のほとんどがチェアワークしかしないなんてこともありました。さすがにこの時は少しチェアワークにうんざりして、テーブルワークが恋しくなったのを覚えています。こんなにみんなチェアばっかりなのか!とこの時はかなり新鮮にそう思いました。

そんな経験もあり《多くのアレクサンダーテクニーク教師がチェアワークから遠ざかっている》は俄かには信じ難かった。
もし本当であるならば、どうしてそのようなトレンドがあるのか、実際のところを知りたい。これが最初に思ったことでした。

次の文に目を移すと「なぜ遠ざかっているのか」の理由が書いてあります。
《”正しく “座ったり立ったりすることが目的であるかのような印象を与えるとよくないからという理由で。》という一文です。

既に前文でギャップを感じている私には、この文章は難解でした。
もちろん日本語としては理解できるのですが、そのような《印象を与えるとよくないから》という理由で避ける、というところがよくわからないのです。
私も《”正しく “座ったり立ったりすることが目的である》と思っているわけではありません。その点では、これを言っているどなたかと合意できていそうです。でも、その後の選択がなぜそうなるのかが分からない。
というか、元も子もないようなことを言うようですが、《”正しく “座ったり立ったりすることが目的であるかのような印象を与えるとよくない》と思っているのであれば、そう思われないような伝え方ややり方をしてチェアワークを行えば良いのでは、と私は思ってしまいます。
誠意を持って、情理を尽くして、そのようなメッセージを伝え、チェアワークの本質をわかってもらいたいと思ってレッスンをするのが心構えとして大切なのではなのではないかと思うわけです。
なので、上のようなことがチェアワークを避ける理由になるのがよくわかりませんでした。

ひょっとしたら、背後にあるのは、「そうは言ってもがなかなか難しいじゃない」とか、「どうやってやったらいいのか分からない」というテクニカルな課題なのかもしれません。
あるいは、《”正しく “座ったり立ったりすることが目的であるかのような印象を与えるとよくない》と頭ではわかりつつ、実は教師自身が《《”正しく “座ったり立ったりすることが目的》ではないというのを芯から納得できていないという話だったのかもしれません。
私がなんで上のようなことを考えたのかと言えば、単純にこれらが私も通ってきた道だからです。私もトレーニングの過程でそのように考え、苦労した時期がありました。それでも、私はチェアワークをもっと訓練したいとか、ここをもう少しはっきりさせるために質問したい、と思って、実際にそうしていました。
ということは、上のような疑問や課題があってもそれを探求する場や機会が実はあまりない、というのが、チェアワークを避ける振る舞いの背景なのかもしれません。ここまで書いてみて、ふとそう思いつきました。どうなんでしょう。
ただ、そうなるとワークショップは、みんなで集まって良い方法を考え、より理解を深めるための素晴らしい機会です。ここが、このテーマでワークショップを行うことにした主催者の方の狙いだったのかもしれません。

ここまで考えて私が思い出していたのは、F. M. アレクサンダーの次のような言葉です。

Boiled down, it all comes to inhibiting a particular reaction to a given stimulus. But no one will see it that way. They will see it as getting in and out of a chair the right way. It is nothing of the kind. It is that a pupil decides what he will or will not consent to do.

F. M Alexander "Articles and Lectures", Mouritz, p.197

これがアレクサンダーテクニークの「煎じ詰めると」なのです。
だから、《”正しく “座ったり立ったりすることが目的であるかのような印象を与えるとよくない》というのは理解できます。むしろ、そこがワークの中で伝えたいところだとも言えます。改めて読むと、ここには「でも伝わらないんだよなぁ」という難しさを前にしたあきらめの気持ちがあるのかもしれません。
ただ、それであっても、チェアワークという機会を避けるのはもったいないように感じます。もっと言えば、チェアワークを避ける私の反応と向き合うのもまたアレクサンダーテクニークの実践です。

こんなことをつらつらと考えながら、デビ・アダムスさんがどんなことを伝えてくれるのかを楽しみに参加希望のメールを書きました。私はチェアワークが避けられているという実態を知りたく、そして、それが何故なのかを知りたいというワークショップのテーマから見ると的のやや外れた目的を持っていました。

私も《チェアワークは、アレクサンダーの概念を紹介するための、豊かで価値のあるワークだと信じて》います。だから、今そこで何が起こっているのか、それにとても興味がありました。

チェアワークとはどんなワークか?

ところで、これを読んでくださっている方の中には、まだアレクサンダーテクニークのレッスンを経験したことがない方や、レッスンの経験はあるけどチェアワークはしたことがないという方もいると思います。
そういう方を置いてきぼりにするのは私の本意ではありません。
私はチェアワークを知らない方にもこの文章を読んでいただき、興味を持っていただきたい。というか私も改めてチェアワークとはどんなものだと私が考えているかを整理しておきたい。
そのため、ワークショップの内容について書く前に、チェアワークとはどんなワークかを私なりに説明してみます。

ところで話はそれますが、私は最近、内田樹さんの書いた『レヴィナスの時間論』という本を繰り返し読んでいました。
というのも、この本でなされている議論が私にはアレクサンダーテクニークのレッスンやワークで起こっていることと重なっているように思えてならないからです。とても面白いです。
この点はまたそのうち改めてまとめたいと思っています。

私がいきなり『レヴィナスの時間論』の話をしたのは、「説明する」と書いて次の文章をふと思い出したからです。
かなり長いのですが、ひと段落全て引用してみます。
なぜかといえば、ここで書かれていることは、アレクサンダーテクニークのワークやレッスン、ワークショップを受ける際にも同じように重要だと私には思えるからです。

ここから後、最後の八頁で、私たちはレヴィナスの最も分かりにくい構想と向き合うことになる。でも、私はそれを「理解しよう」と力むことはもうしないつもりでいる。ある概念がなんであるかを一意的に定義することよりも、「一意的に定義し得ない概念」に導かれて、かつて一度も足を踏み入れたことのない深みに沈み込んでゆくことの方が、哲学的には生産的であるということがあることを知ったからである。だから、「理解する」ことについてはもう努力しないけれど、「説明する」努力はもう少し続けるつもりでいる。理解できていないことをどうやって説明するのだといきり立つ人がいるかもしれないけれど、「説明する」ということも他者に出会うひとつの正統的なあり方なのだと私には思われる。そういうことを言う人はあまりいないけれど、分かりにくいことを説明すると言う作業は、読者や聴衆に「心を開いて」もらわないと成立しない。ただ、一方的に「正しいこと」を述べ立てても、それでは説明にならない。そして、「心を開く」と言うのはそれほど簡単なことではない。説明を受ける側が、一時的に自分のふだんのものの考え方や感じ方を「棚上げ」し、「かっこに入れて」、こちらの言い分を「丸呑み」にしてもらわないと説明は成り立たない。「心を開く」と言うのは見た目はずいぶんと穏当な動詞だけれど、「心を開く」というのは、どこかで「自分を手放す」ということである。自分が自分のままである限り心は開かない。だから、説明をしている私は、読者にわずかなりとも「自分を手放す」ことを要求している。読者を一時的に、「単独者」になってもらって、あなたがかつて経験したことのない、前代未聞の、唯一無二の出会いを経験してくれないだろうかと懇請しているのである。

内田樹『レヴィナスの時間論 -- 『時間と他者』を読む』新教出版社 p.381-382

アレクサンダーテクニークもまた、文字で読むと本当に分かりにくいものです。これは体験した多くの方が同じように感じているのではないでしょうか。
でも、だからこそ、誠実に説明をしなくては、と思っています。
ここで書かれているような心構えで読んでていただけるとありがたいです。

* * * * *

チェアワークの話に戻ります。

チェアワークとはどんなワークか、でした。
石井さんのワークショップの紹介文には《座ったり立ったりするワーク》と書いてあります。
話はそれますが「ワーク」という言葉が出てきます。
「ワーク」という言葉は「レッスン」とほぼ同じような意味合いで理解して良いと私は思います。ただ、教師から受けるのが「レッスン」であるとするなら、「ワーク」はもう少し意味の幅が広く、自分で自分にする「レッスン」つまり自習も含んだ言葉のように私は感じます。あくまで私は、ですが。そのような理解で使っていきます。

さて、チェアワークを《座ったり立ったりするワーク》という場合、これは「イスから立ち上がる」「イスに座る」という動作を扱うワーク(レッスン)ということを意味しています。あまりにもそのままのことを言っていますね。

この「イスから立ち上がる」「イスに座る」といった《座ったり立ったりするワーク》は、アレクサンダーテクニークのいくつかある「プロシージャー Procedure」の1つに数えられています。
「プロシージャー」は、私なりに日本語に訳すと、アレクサンダーテクニークの原理を伝えるための「型」と言えると思います。
それくらい基本であり、大切なワークだということです。
これは原理を実際的なやり方で伝えるための型なのです。《”正しく “座ったり立ったりすること》が目的ではないと私が考えている根拠の1つはここにあります。

ただ、私はチェアワークをもう少し幅広く考えています。
チェアワークは《座ったり立ったりするワーク》ではなく、《座ったり立ったりするワーク》を含んだワークなのです。
ゆるくまとめると、「イスを使ったワーク」全般という感じです。

《座ったり立ったりする》ことも含まれるし、座っている、椅子の前や椅子の後ろに立っている、という状況でのワークも含めてチェアワークと考えています。どう座っているかや、よく聞かれる座っている際の姿勢のことも私にとってはチェアワークに含まれている。
イスに座っている時に肩や腰が痛むのが問題ならば、その時に私が何をしているか、つまり私が気がついていない習慣を発見しようとすることもまたチェアワークです。

そんなわけでイスを使ったワークが「チェアワーク」と私はお伝えしています。シンプルです。

アレクサンダーテクニークはシンプルです。あまりそうは思われていませんが。
この誤解はアレクサンダーが教えていた時代から続いています。アレクサンダーの著書『Constructive Conscious Control of the Individual』の第1章には、レッスンに来たある科学者のものとして以下のような言葉が残っています。

When he came to his lesson one morning he said: “I know now what is the matter with us all. This work of yours is too simple for us!”

F.M.Alexander: "Constructive Conscious Control of the Individual", Mouritz, p. 9

シンプルすぎるのが問題だなんて面白いと思いませんか?
でも、シンプルすぎることがどうして問題なのでしょうか?
シンプルならその方が良い気がしませんか?

そんなんで上手くいくかと疑いたくなるのかもしれないし、当たり前のこと過ぎてかえってスッと受け入れられないのかもしれません。ぽかんとしてしまうというか。かえって難しく考えてしまうのかもしれません。
よく分からないからには何か難しいことが起こっているに違いないと思うのかもしれない。
これはチェアワークについても同じことが言えそうです。

私の先生はアレクサンダーテクニークの別名は常識 (Common Sense)だと時折言っていました。

チェアワークに限らず、アレクサンダーテクニークのワークであれば、第一に目指すことは共通していると私は思っています。そして、それは先に引用したアレクサンダーの言葉に尽きます。

今回のワークショップを思い出すと、主に《座ったり立ったりするワーク》にフォーカスしながらこの点を学んだ、というのがざっくりとしたレポートです。

一旦区切って、この点については改めて書きたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?