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選択した後の世界を。

初夏のある日、一週間半後に大学時代の友人2人と予定していた国内旅行を、わたしだけキャンセルにして欲しいと彼女らに連絡を入れた。

その頃は、政府からの緊急事態宣言が数週前に解除されたものの、じわじわとまた感染者数が増えてきて、第二波の始まりがほのかに匂いつつある頃だった。移動自粛要請は解除されたが、Go to キャンペーンはまだ始まっていない頃で、行くか行かぬか、それは個々人の判断に委ねられた、そんな時期だった。

わたしたちは24歳で、社会人三年目で、なんとなくそれぞれの会社で有給休暇がいつどれくらいの時期に取りやすいかが分かってきた。業種も各々で違い、故に繁忙期も違い、友人一人は転勤で違う地方に住むため、大学時代頻繁に顔を合わせていた仲が、年1〜2回顔を合わせるレベルになった。

同時に、ここ1〜2年で私たちと仲良くしていた大学の友人の一人が結婚し子どもも産まれた。おめでたくあったものの、なんとなくご飯も誘ってもいいのかな…と距離を感じていたこともあり、それぞれの結婚や出産等のライフイベントの時期の差によって、今後より会いづらくなることも身に染みて分かっていた。

まだまだ人生は長いとは思うけれど、コロナも相まって、一緒に時間を過ごせる機会は自ら作り出さないとどんどん無くなるんだと、そんなことにそれぞれが気がついていたような気がした。

一方、わたしは実家暮らしで、家には持病を持つ父がいた。まだ深刻化していないが、風邪や肺炎から悪化する可能性がある病だった。

その旅行は、数ヶ月前からコロナが落ち着いた頃に行こうと約束していて、緊急事態宣言下にも、(気が付いたら違う話をしていたけれど)宿決めや行程検討でライン通話をした。そして、わたしが気になっていたホテルに二人も賛同してくれて、移動自粛要請が解除されてすぐに予約を入れた。それぞれが、行きたい場所のリンクも送り合い、自粛明けに最も楽しみにしていた予定の一つだったと思う。

それでも、わたしは、行くのはやめると言った。

・・・

今まで、こんな経験はほぼしてこなかった。基本友人から誘われたものは全て参加するようにしていた。自分のいない場所で面白いことがあることに、どこか無性に寂しさを感じていた。自分の参加しなかった会で、他の友人らが仲を深めると、どこか置いて行かれた感覚になり、変な焦燥感を味わった。もちろん徐々にそんなことは仕方がないんだとわかるようにはなっていたが、基本誘われたものは行くようにしていた。

それでも、わたしは今回の旅行に行かないことを決めた。自分のスケジュールの問題でも、仕事の問題でも、身体の問題でも、お金の問題でも全てクリアしていた旅行を、行かないと決めた。行ったことで、万が一起こり得る可能性を無視することはできなかった。

もしかしたら旅行に行くことで感染するかもしれない。感染して父にうつすかもしれない。そして父の持病が悪化して、もしかしたら死ぬかもしれない。全て「もしかしたら」の話であるが、なんとなくこのまま行っても不安に駆られるだけのような気もした。

そして、「行くのをやめる」とラインした。

しかし、同時に、わたしはどこか友人たちに、過度な恐れを植えつけてしまったのではないかとも思った。彼女たちは彼女たちなりに適切に恐れていたものを、わたしが行かないと決めたことで、過度な不安を味合わせてしまったのではないか、とそんな気もした。

そして、友人たちの貴重な24歳の夏に行くはずだった場所を、経験を奪ってしまったような気がした。

わたしは正しく恐れられているんだろうか、適切な選択だったのだろうか。父が今も生きているから、ある程度適切だったとは思う。けれど、今こうして長々と書いているように、わたしの心にはまだ「行きたかった」思いもあるし、「行っても大丈夫だったのではないか」という思いも少しはある。あの時どの選択が正しかったのか、そして自分も、周りも一番幸せになった選択はどれだったのか、今でもわからない。

・・・

何かを選ぶことは、何かを選ばないことだ。選ぶことで、少しでも自分の世界は変わる。誰かと生きる以上、自分の世界が少しでも変われば、その影響は少なからず誰かに生まれる。そして、思わぬところに、思わぬ影響が生まれることもある。その世界を許容できるのか、できないのか、その微妙なズレに「選択」という札が立っているように思う。

選ぶことの尊さも、選んでしまった失敗も、それによって負う罪悪感も、選ばなかったことの後悔もすべて選択という札に付き纏う。札をどちらに振るか、その結果はしばらくしないとわからないことも大いにある。

「えいやって瞬間がないと人生つまらないよ」(ドラマ『恋する母たち』)
「罪のない人間なんているのか?」(ドラマ『アンナチュラル』)
「自分の選択はエゴではないのか?」(ドラマ『重版出来!』)
「バカになれたら楽なのにね」(ドラマ『獣になれない私たち』)

どれも、何かを選ぼうとして、選んで、選んでしまって、出たセリフだ。このセリフを思うたびに、どのセリフもそれは正しくて、だからこそどの指標で選択をすればいいのか、いつも悩む。

それでも、わたしたちは日々選んでいかなければいけない。ある時はえいやっと、ある時はエゴに、ある時は人のことを考えて。

途方もなく、難しいよな、と思う。その途方もなさに、泣きそうになる。大切にしたいものがいくつもある時、自分の心も、友情も、家族も大切にしたいのに、ひとつの選択で全てを大切に仕切れない時。つい目の前の幸せを掴みそうになる。

それでも、きっと“長く”幸せが続きそうなものを選ぶしかないんだろうな、と思う。いつだって選択した後の世界はグラデーションで、選んで良かった世界と、選ばない方が良かった世界が、混ざり合う。何が正しくて、何が幸せで、何が不幸せかはわからない。

だからこそ、その選択した後の世界を時間をかけて、正しく、多くの大切にしたい人にとって幸せな世界にしていくその姿勢が大切なんだろうなと、なんとなく思う。

今、わたしはあの時の選択で父をとりあえず今日まで死なせなかった。だから、次は、友人とまた楽しい時間が送れるように、そしていつかあの時の旅行に行けるように、何かしらで彼女たちに手を伸ばしたいと思う。

選択は時に残酷にもなり、時に美しくもなる。だからこそ、その後の世界を、美しくしていくしかないんだと思う。それがまた難しくて途方もないのだけれど。

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