自分のエゴと生命について
今年の5月から、我が家には犬がいる。
わたしが近所のペットショップで見た子犬に所謂一目惚れしてしまったことをきっかけに、結局その子とはご縁がなかったのだけれど、家族会議の上、あるブリーダーさんから、トイプードルの男の子を家族として迎え入れた。
迎え入れる1年前までも、いや、その年の数ヶ月前までも、まさか我が家族に犬が増えるなんて、全く想像していなかった。迎え入れる前に、それなりに勉強もして、迎え入れる用意をしたけれど、やはりどこか唐突だったことは否めない。
迎え入れてからは、その唐突さが招いたのか、想像できていなかった子犬対応にあわあわとした日々を過ごしていた。半年経った今頃やっと、少しずつこの生活に腰を落とせるようになった気がする。
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わたしが生きてきてからの動物との生活といえば、小学生の頃数ヶ月で息を引き取ってしまった蛙以来で、末っ子のわたしにとっては、どこか多少なりとも自分の保護下にいる存在は初めてだった。それだからか、自分を慕ってくれる存在に、この上ない愛おしさを感じている。仕事終わり家のドアを開けると見える、長めの尻尾を高速に回転させるその姿に、仕事のあれこれも吹き飛ばされる。誰かが同じ時間帯に生きてくれている、共同体としての存在に大変救われている。
そんな愛おしさと同時に、半年経った今もどこか未来に対する不安という言葉が正しいのだろうか、少しナイーブな感情が浮かんでいることも確かだった。もちろん、彼が生きている間たくさんのお金と愛情を可能な限り捧げるつもりではあるものの、未来の不確かさに、それが犬に降りかかる無惨さに、時々たまに涙が出そうになる。
実際に犬を迎え入れて、彼の成長を見届けていると同時に、彼がいつか老いて死を迎える存在であることをまじまじと実感する。迎え入れる前に、それなりに心を決めていたはずだったのだが、この犬がこれから過ごす約20年間を具体的に想像できていなかったと実感する。今実家で過ごす25歳のわたしは、彼が命を引き取るであろう頃は40代で、きっと実家を出ていて、その頃も両親は健在なことを祈っているが、どうなるかはわからない。もちろん、最後までわたしが責任を持つ意思を持っているが、彼がこれから過ごす約20年は、彼の土壌である家が様々な形に変わる20年であるということに、わたしは事前に考えを馳せることができていなかった。この変動の多い不安定な20年間に彼を迎え入れて良かったのか、ただ自分の強い「欲しい」というエゴに突き動かされてしまったことに、少し不安の念が消えない。
犬は、飼う人間が作り、連れ出す世界が全てだ。東京近郊のマンションで、公園行く以外広い庭もなく、それなりに留守番をさせざるおえない我が家で、彼は犬らしい生活を送り続けられるだろうかというのも心を蝕むひとつではある。今、近くに信頼できるドッグトレーナーを見つけ、定期的にトレーニングを受けて、やっと犬としても人間社会に適応できるような生活を送れるようになってきた。しかし、もし出会うことができていなかったらと想像すると、「本当にあの時『欲しい』という感情で飼うことを決めてしまったことがよかったのであろうか?」という問いに答えが出ないでいる。
もちろん、彼が生きる世界をこれからもより良くしていく努力は惜しまないつもりであるし、これから先も共に健やかに生き続けていきたいが、自分自身の「欲しい」と願ったその想いと、彼が持つ生命の重さは現状どうしても見合っていないような気がして、自分のエゴイズムの暴力性のようなものをひしひしと実感している。もし他の家族が引き取っていたら、もっと幸せになれたのではないだろうか?その感情と日々闘っている。
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「生命は大切だ」「ちゃんと考えて引き取りましょう」「おもちゃじゃない」そんなことは理解できていたはずだったけれど、やはり存在が目の前にいてから、その事の重大さに気がつく、自分の未熟さにほとほと実感する。
それでも、彼が我が家に連れてきてくれた、この家族の輪としての和やかさと生命の輝きの温かさに日々救われている。家族に対してここまで愛おしく思えるようになったのも、彼のおかげだ。
きっと、「もし他の家族が引き取っていたらもっと幸せになれたのではないだろうか?」と思い続けながら、その想いをどうにか小さくしようともがき続けて、共に生きていくこと、その両者の揺らぎこそが、生命を扱うことの確かさなのではないだろうか。今は、そう感じている。
自分が「欲しい」と願ったその思いが、彼にとって暴力的ではなく、柔らかな光であり続けられるように。エゴイズムの感情を抱いたことを胸に刻みながら、それに自分自身も救われ続けるように、生きていきたい。
たくさん、いろんな景色を見て、一緒に世界を愛していこうね。
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