「甘え」の矛先


仕事柄(やいたいことの性質上?)子どもたちと接することが多い。

大学院時代の実習なども含め、乳幼児~高校生くらいまで、一般に子どもと呼ばれる年代とは分け隔てなく。


その中で、今日感じたことがあるので、ここに残しておきたい。



今日は、隔週で参加している学習塾兼子ども食堂のようなところのボランティアに行ってきたのだが、まだ2回目なので、そんなに子どもたちとも親しくない関係性にある。


みんな、ぼくのことを覚えている(顔は見たことあるな、くらい)様子ではあったが、どういう距離感で、どういう関係性で仲良くなっていけばいいか、少し模索しているようだった。


そんな中、今日は特別に屋形船の遊覧船に乗って、子どもたちの地元を知ろうという企画だったのだが、船の中で複数の子どもたちと色んな遊びをした。


昔からある手遊びや、自分達で同時に考えだしたものなどあったが、どうもぼくをおもちゃにしているような感じがあった。また、少し強めに叩いたり。

それ自体に嫌な感じはなく、雰囲気から、おそらく試し行動だろうと推測していた。まだ親しくない間柄だと、よく攻撃をされる。

それはぼくの特性上、頼りなさとか、ちょっと抜けてる感じとか、マイペースで揺るがない感じとか、そういうのを感じ取ってそういう行動に至っているのだと思うが、そこには


”この人はどこまでなら許容してくれるか”


を測るという意図がある。

微細な表情の変化や文脈を頼りに、非言語的な情報から僕もそれを感じ取っている。なので「遊び」の範疇で留まる。

厳密には、遊びの範疇から出ようとすれば、ぼくは即座に中止し、『それ以上の危害を加えるなら、もう遊べないし仲良くはできない。それは嫌だし、僕は仲良くしたいと思っているから、どうかやめてほしい』ということを伝える心づもりがあるので、こちらに余裕が生まれている、ということだから。



船は無事に陸へ到着。

その後は、さきほどの態度とは変わり、膝の上へ座ってきたりと、身体的な接触が増えた。

もしくは、船ではあまり話してこなかった子が、絵という媒介を用いて(ぼくも絵が好きだという話を船でしていた)、積極的にコミュニケーションを取ってくるようになった。


おそらく「この人は大丈夫だ」という確信が多少得られたのだと思う。



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ここまで読んでくれた人たちへ聞いてみたい。

僕が書いていた子どもたちの年代は、果たしてどれくらいだろうか。



正解は、小学生である。

あくまでも、ぼくのこれまでの経験上での知見だが、小学生はよく甘えてくる。ちゃんと相手を選んだうえで。


甘え方は人それぞれだが、その子なりの甘え方で、甘える印象が強い。

それはなぜなのだろうか?ということを、ここでは考察したい。



自分が小学生の時を思い出してほしい。

ぼくの記憶では、関わる周りの大人は、親、先生が大半を占めていた。

それもそのはず、一緒にいる時間が長いからだ。


さらに、その二者との関係性や距離感を考えてほしい。

親は、24時間生活を共にし、良くも悪くも距離が近すぎる。

また、先生とは、その関係性上、どうしても上下の構造に組み込まれざるを得ない。


そう考えると、例えば、実習生とか、ボランティアでたまに来る人というのは、本当にちょうどいいのだ。

何がちょうどいいかと言うと

”甘える人として”

ということだ。



近すぎず遠すぎず、かといってなにか評価されたり、指導されるような立場にもない。本当にフラットな存在なのだ。

(もちろん、関わる側のスタンスによるが。どんな人でも、権力構造や優劣に持ち込もうとする人はいる)



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そういうわけで、これからもぼくはきっと、攻撃をされながら甘えられるのだろうし、そういう存在でいたいな、と思った。


なにより、子どもたちにとって、そういう存在はとても大きいと感じているし、いわゆるサードプレイスではないが、家族や学校の他に、本当にフラットに人と接することができる場所があるというのは、本当に大切だと感じるからだ。


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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。





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