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告げ口AIと少女の左手⑨

3 友坂澄生

「澄生、静香、芦ノ湖、行くぞ」
 帰って来たナオ先輩が、突然言った。
 澄生はびっくりした。
「え? 芦ノ湖?」
「ああ、知ってるか、箱根の、でかい湖だ」
 知っているも何も、ブラックバスを釣りに行く父親のお供で、小学校に上がる前から何度も行っている。
 そして、二年生の夏休み、家族でそこに向かう途中、事故で……
 運転席にいたパパと助手席にいたママが、死んだ。朝早かったのでまだ眠かった澄生は、後部シートで寝ていて助かった。
 もう二度と、行きたくない。
 だが、ナオ先輩が遊びに行こうと言っているわけではないのは、わかっていた。
「明日、クルマで行く。こないだのベンツ、また借りたからさ」
「いつまで?」
「それは聞いてねぇ。ま、二、三日か、ひょっとしたらひと月くらいかも……そっか、したらユリナとも会っといた方がいいな」
 後半は独り言を呟いて、ナオ先輩は二人を近所のファミレスに連れて行った。夕食を終え、アパートに戻る。
「お前らは先帰ってろ」
 ナオ先輩はベンツの鍵をじゃらっと回してどこかに出かけた。ユリナと会うのだ。
 静香は満腹したせいか、うとうとしていたので、先に寝かせ、澄生は一人でゲームを始めた。
 だが、明日は芦ノ湖だと思うと、集中できない。
 あの時、澄生は本当にぐっすり眠り込んでいた。だから、激しい衝撃を感じた時には寝ぼけていて、何が何だからわからなかった。
 居眠り運転のトラックと正面衝突したことも。クルマの前半分が圧し潰されて、両親が血肉の塊になってしまったことも。
 ただ、怯えて泣いていた。
 明日はあの場所を、また通るんだろうな。
 嫌だが、仕方がない。静香があの力を示して、自分たちで生きていけるだけのお金を手に入れるためだ。
「どうしたの、今日は調子悪いね」
 三回続けてゲームに負けると、モナミが声をかけてきた。
「うん。今日はダメだ。モナミとお喋りしてた方がいいや」
「いいよ、何の話をする?」
「ぼくたち、明日からちょっと旅行するんだ」
「へぇ。いいねぇ。どこ行くの?」
「芦ノ湖」
「神奈川県足柄下郡箱根町箱根184ー1だね」
「そうなの?」澄生は笑った。「ま、湖だよ」
「うん。この季節だと、釣りができるね。そろそろトラウトの季節かなぁ」
「パパはブラックバスを釣るのが好きだった」
「バスもまだ大丈夫じゃないかな。澄生も釣ったの?」
「ううん、ぼくは小さかったから、パパの手伝いをしただけ。でも、楽しかったなぁ。ルアーをパパが動かすと、本物の小魚が泳いでるみたいでね」
「竿は何を使ってた?」
「フェンウィックだよ。パパが大事にしてたバスロッド!」
 澄生の脳裏に、あすいく園の個室に置いてきた、あの竿が浮かんだ。
 あんなに長いものを学校には持って行けず、泣く泣く諦めたのだ。
 まさかまた芦ノ湖に行くことになるなんて思わなかったし。
「モナミ、芦ノ湖の明日の天気は?」
「晴れだ! よかったね、きっと楽しい旅行になるよ!」

4 みひろ

 通知音が鳴った。
 家でくつろぎながら、ワイングラスを傾けていたみひろは、リモコンでステレオのボリュームを落とした。
 スマホを開くと、メッセ―ジが入っている。Vプロジェクトのシステムからだった。
『モナミ《対話》:スミキ』
 件名を見て、みひろは体を起こした。
 友坂澄生か三輪静香がモナミと《対話》した時に限り、音声データをテキストにして、スマホに転送させているのだ。
『スミキ:ぼくたち、明日からちょっと旅行するんだ。
モナミ:へぇ。いいねぇ。どこ行くの?
スミキ:芦ノ湖』
 芦ノ湖?
 いよいよ動き出すらしいが、それにしても意外な場所だ。
 しかし、友坂澄生に関するデータは頭に入っている。それが交通事故で両親を亡くした場所だと気がついた。
 だが、このタイミングで、なぜ?
 命日……ではない。確か事故が起きたのは夏休み中だった。
 すると……
 もどかしくスマホを見ていくが、澄生とモナミの《対話》は、その後釣りの話題になってしまった。
 ともかく、安西麻里子に連絡しないと。
 ――え、芦ノ湖ですか?
 麻里子も意外そうだった。
「そうよ。明日らしいわ」
 ――そう言えば、今日の午後、時間があったんで少し張り込んだんですけど、松井、分不相応にベンツ乗りつけたんです。
「じゃあ、明日はクルマね。大方、組の上から借りたんでしょう。つまり、単なる遊びじゃない」
 ――ですね。そしたらこっちもクルマだな。何とか都合して、明日の朝から張り込みます。
「あたしも行く」
 とっさにそう答えて、自分がびっくりしていた。電話の向こうの麻里子はもっと驚いて、
 ――え? みひろさんが? 大丈夫なんですか、仕事?
 もちろん大丈夫ではない。明日は明日で予定が詰まっている。だが、
「大丈夫」
 とみひろは言った。

 翌朝、麻里子はあのアパート前の路地で張り込んでいた。
 みひろが近づくと、軽く目礼する。
 朝の空気が冷たいが、明けそめた空は雲ひとつない。
 アパートの前には不似合いなベンツがとまっている。
「みひろさん、クルマで待っててください」麻里子はキーを渡した。「裏のコインパーキングにあります。白のスバル、WRXです」
 言われた通りそのクルマで待機したが、なかなか動き出したと言う連絡は来なかった。
 あくびを噛み殺して、みひろは呟いた。「やっぱり早すぎたんじゃないかしら」
 今朝の集合時間を、麻里子は午前五時にしようと言った。自堕落なチンピラがそんなに早くから動き出すかしら、と訊いたら鼻で笑われた。
 あの世界は上下関係が厳しく、下っ端ほど朝は早いのだそうだ。上の連中が出て来る前に事務所は掃除しておかなければならないし、いろいろな雑用もある。お偉方がゴルフに行く日は、送り迎えでさらに早い。
 澄生と静香が一緒なら、ゴルフではないだろうが、それでも芦ノ湖までは遠出だ。早朝に発つ可能性がある。
 警視庁刑事が言うことなので承知したが、腕時計が六時半を回っても連絡がなかった。
 張り込みを代わろうかと思ったところへ、スマホが鳴った。
 ――出て来ました。
 みひろはスバルを始動させた。
 コインパーキングから大通りに出たところで待っていると、目の前をあのベンツが通り過ぎた。それを追いかけるように麻里子が走って来て、助手席に飛び込む。
 アクセルを踏んだ。外観はありふれたセダンだが、WRXはもともとインプレッサのスポーツグレードであり、世界ラリー選手権に参戦したクルマのベースでもある。相手がどんなに飛ばしても、楽に追尾できる。
 しかし、松井直人は走り出してすぐ、ファミレスの駐車場に入った。正面に地下へ降りるスロープがあり、ベンツはそこを悠然と下っていく。
「朝飯ですね」
 麻里子が言った。
 向かいにスバルをとめて見ていたが、地下駐車場からそのまま店内に上がれる構造らしい。
「じゃ、こっちも朝食にしましょう」
 みひろはこうなることを予想して買って来たハンバーガーの袋を見せた。
 すると、麻里子が笑った。
 彼女も同じ袋を出したのだ。

 ドライブにはうってつけの日和だった。
 八時半を回ると、運転を麻里子に替わった。Vプロジェクトルームに電話をして、木月に急用で有休を取る旨を告げ、今日予定されていた仕事の指示をする。それでも、すぐにまた電話がかかってきて、和藤が判断を仰いでくる。それが終わると管理セクションから経費の問い合わせがあり、さらにメールをチェックし、緊急のものには返信をする。
 瞬く間に時間は過ぎ、気がつくとクルマは山道を走っていて、木の間に遠く、水のきらめきが覗いていた。
 芦ノ湖である。

5 松井直人

 カーナビが、目的地に到着しました、と言った。
「ひぇー、こいつはまた」
 松井直人はベンツをとめ、目の前の別荘に口笛を吹いた。
 まるでスイスとかの山荘みたいだ。
 って、行ったことねぇけど。
「さっすが、青龍会の親分さんともなるとちげーぜ」
 ベンツから降り、若頭の鮎川から預かった鍵でドアを開けると、澄生と静香も歓声を上げた。
「うわーっ!」
 広々とした玄関ホール、天井から下がったシャンデリア、分厚いカーペット、正面にあるのは二階に続く大きな階段だ。
「やっぱ、ユリナも連れてくりゃよかったな」
 そうしたらあの女も、俺を見直しただろう。将来の大物、松井直人さまを。
 けど、これは仕事なんだし、それもその将来がかかった大事な大事な仕事なんだから、女連れはまずいだろうと思って遠慮したんだ。
 そうだ、浮かれてらんねぇ。気を引き締めてかからねぇと。
 直人はぱんぱんと自分の頬をはたき、気合を入れた。

 これも豪華な寝室が一人ひと部屋ずつある。各自僅かな荷物を置くと、一階のテラスに集まった。
 眼下に芦ノ湖が一望できる。暫く景色に心を奪われていたが、やがて静香が直人を見上げた。
 そっか、そろそろ昼だな。
 朝、出掛けに立ち寄ったファミレスで、静香はいつも通り、たらふく詰め込んだのに、昼は昼でちゃんと要求する。
 キッチンに行ってみると、鮎川から聞いた通り、昼食が用意されていた。
 サラダに始まり、魚料理、肉料理、パスタまで、フルコースが丁寧にラップをかけて、レンジで温めればいいだけになっている。ここに出入りの料理人が準備しておいたものだ。
 食べ始めたが、しかし澄生も直人も、何となく持て余し気味だ。朝食がまだもたれている。それに、これからの仕事のことが気になる。
 静香一人が黙々と皿を空にしていった。
 食事を終えると、澄生は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。四年もあすいく園にいた習慣は抜けない。静香はまだ一年も経っていないはずだが、澄生の真似をした。
 それを眺めながら、一体誰に言ってることになるのかな、と直人は思った。
 これをつくった料理人か。会ったこともないのに? 昼食は用意させておく、と言った鮎川の兄貴か。料理人とはなるべく顔を合わせない方がいいから、後の飯は外で済ませろ、いろんな店に行って目立たないようにしろよ、とまとまった金をくれた組長か。
 しかし桑野組の上に青龍会がいることくらいは、チンピラでも知っている。つまり、この別荘のオーナーである青龍会会長に、「ごちそうさま」と言ってるんだろう。
 それにしても、随分間に余計なものが挟まってやがる、と直人は思った。あすいく園でちらっと会っただけの自分を拾ってくれた鮎川の兄貴はともかく、他は全部すっ飛ばして、直接会長と話せりゃ簡単なのに。これじゃまるで下請けの下請けの下請けだ。
 大体、桑野組を通す義理だってないんだよな。俺はまだ盃貰ってねぇ。こっちがくれって言ったのに、未成年だからって突っぱねたのはあちらさんだ。いわば、俺はフリーランスで、青龍会と直で取引して悪いことはねぇはずだ。
 そう言えば、今回の一件、うまくやったらいくら寄越すんだろう。どうせ、桑野組が抜くんだろうけど。
 まあ今回はお試しってことで、いいとするか。次回からは先にかっちり決めとこう。いくらって言おうかな。百万かな。どうだろう。ヒットマンのギャラって相場がわかんねぇ。そりゃシャブ中とか不法入国の外人とかは数万で殺るっていうけど、そんなのと一緒にされちゃあな。ゴルゴ13クラスと思ってもらわなくちゃ。だとすると、百万じゃ安いな。五百万? いや、いっそ一千万!
 思わず、むほほほ、と笑ったら、澄生が怪訝な顔をした。「ナオ先輩、何笑ってんの?」
 咳払いで誤魔化して、コーヒーを淹れた。子ども二人は冷蔵庫にあったオレンジジュースだ。またテラスに戻ると、陽射しが柔らかく、湖に乱反射している。
「これから、どうするの?」
 澄生が訊く。
「連絡待ちだ。俺たちはそれまでのんびり遊んでりゃいい」
「相手は……どんな人?」
 相手……それはもちろん、静香が殺す相手、という意味だ。直人は答えに迷った。実は、聞かされていないのだ。
 だが、そんなことを言うと澄生の信頼をなくすかも知れない。直人はもっともらしい顔をつくった。
「それは、お前らは知らなくていい。要するに、こないだみたいな、悪いおっさんだ。そいつを退治するんだ」
 そう、おっさんなのは間違いないだろう。まさか女ってことはないよな。いや、ババァならありか? ま、いいさ、万万が一そうだったら、予定が変わってターゲットも変ったって言やいいんだ。
「じゃあ、場所は? こないだは空手の道場だったけど」
 それなら鮎川の兄貴から聞いている。
「マンションだ。悪いおっさんってのは大概マンションに隠れてんだ。ほら、雉沢みたいにな。そこを襲うってわけ」
「この近く?」
「そうだ。リゾートマンションってやつだな……って、澄生、やけに訊いてくんじゃねぇか。なんか心配なのか?」
「うん」澄生はちらっと静香を見た。「ねぇ、静香、こないだ空手の道場でさ、電気消したろ?」
 静香は細い眼を澄生に向けて、頷いた。
「暗くないと、ダメってことだよね?」
 また頷く。
「でも、あの雉沢のとこは? あの部屋は明るかったじゃない」
「影が……」静香が重い口を開いた。「テーブルがあって、そこの下に……」
 それだけで現場にいた澄生には通じたようだ。「そうか……ベッドの脇にサイドテーブルがあったね。あれくらいの暗がりがあればいいのか。じゃ、園長室も……」
「机の、下……」
 園長室は直人もよく知っている。机というのは、園長が使っていた、あのばかでかいデスクのことだろう。
 直人にも澄生の言わんとするところがわかってきた。「静香がパワーを出すには、条件があるってことだな」
「そうなんだ。暗いところがないとダメなんだと思う」
「じゃ、朝、出がけを狙うって線はないわけだな。狙うなら夜だ」
「うん。できれば外がいいね。部屋の中にもどこかしら影はあるけど」
「まあ、どっちみち警戒してて中には入れねぇかもな。おっさんが帰って来たところを狙うんだ。夜道だな」
「ね」澄生が言った。「下見した方が、よくない?」

6 みひろ

 電話をしていた麻里子が、コンビニの駐車場にとめたスバルに戻って来る。
「青龍会の会長でした」
 みひろは頷いた。「やっぱり。箱根に別荘なんて、桑野組にしちゃ豪華すぎると思った」
 松井直人の運転するベンツを追って、芦ノ湖までやって来た。別荘の点在する地域に入ると、そのひとつに続く山道にベンツは消えた。そこから先は私有地だ。一旦近くのコンビニまで引き返し、飲み物や食べ物を補充しつつ、別荘の持ち主を確かめるため、麻里子があちこち電話していたのだ。
「青龍会が、あの子に誰かを殺させようとしてるってことね」みひろが言うと、
「あいつらなら、ニーズはいくらでもあるでしょう」麻里子はスマホを示して、「それとなく組対の同期に訊いてみたんですけど、どうも最近、本山組の組長が都内をうろうろしてるみたいなんです」
「本山組? 関西の?」
「そうです。おまけに青龍会とはずっと対立してますよね。前の戦争は手打ちになってますけど、睨み合いが続いてる」
「つまりここは敵地よね。危険を承知で現れたんだから、遊びじゃない。一体何のために?」
「それが……わからないそうです。暴対法以降、どこの組も体力がなくなって、戦争はしたくないはずなんで、組対も首を傾げてます」
「でも、本山が箱根にいるんだったら、わざわざ片道二時間もかけて都内に通ってることになる。露骨に六本木辺りに泊って、青龍会を刺激したくないとはいえ、かなり面倒だわ。逆に言うと、それだけ重要な用があるのかも知れないわね」
「だから青龍会のターゲットになったと考えれば、筋は通ります」
「どっちみち、本山の居場所がわからない以上、こっちとしては、松井たちが動くまで張り込むしかないわね」
「この先に、別の枝道がありましたから、そこで待機しましょう。別荘までは一本道です。出口さえ見張ってれば見逃すことはありません」
 麻里子はスバルを移動させた。ベンツが消えた山道が斜め前方に見えるところに、なるほどごく細い枝道がある。そこへ後ろ向きにスバルを突っ込んでみると、絶好の張り込みポイントだった。
「また、お昼に出て来るかしら」
 みひろはさっきコンビにで買ったパンを取り出す。
「どうですかね。こっちはのんびり食べるわけにはいかないですけどね」
 麻里子はおにぎりを引っ張り出す。
「張り込み中は仕方ないわ」
「調査庁にいた時は、張り込み、あったんでしょう?」
「もちろん。でも随分昔だから。調査庁時代も、後半はもっぱらパソコンと睨めっこだったし」
「監視団体のホームページやブログをチェックするやつですね。一日に二、三件ネタ挙げればノルマ達成って聞きましたけど。後はネット見て遊んでればいいって」
「ふふ、公安から見れば楽な仕事に見えるでしょうね」
「みひろさんは、やっぱりお父さんの件があったから、調査庁に入ったんですか?」
 麻里子はしれっと言った。友だちなどと言ってはいるが、ちゃんと前歴を調べている。公安捜査官の習性だろう。
「まあね。結局、父はあれが原因で自殺したし」
「カルト憎しってわけですか」
 本当はそうではない。みひろが心底憎んだのは、「人々」だ。
 PTSDに苦しむ父親の気持ちを理解しようとせず、辞職に追いやり、家庭を崩壊させた会社の連中。口さがない近隣住民。冷たく背を向けた学校の友だち。親戚でさえことごとく冷淡だった。
 事件の直後はあれだけ心配し、困ったことがあれば何でも言ってくれと熱心に申し出た同じ「人々」が、たった一年で掌を返した。その残酷さを、子ども心に憎んだ。
 あいつらは何も考えていない、バカな羊だ。
 まだ父親がテロの被害に遭う前のことである。
 家ではインコを飼っていたが、鳥かごの一部が壊れたので取り換えることになった。しかし、みひろがインコを出そうと中に手を入れると、激しくはばたいて逃げ惑う。鋭い嘴で指先をつっつきさえした。痛いっと叫んで手を引っ込めると、その隙に外へ飛び出してしまい、父親がようやく捕まえて新しい鳥かごに移すという大騒ぎ。みひろは、思った。なんて、バカな鳥。
 せっかく新しい鳥かごに移してあげようとしてるのに。
「人々」だって、レベルは一緒だ。何も考えていない。盲目的に怯える。真の敵ではなく、目の前の被害者を憎悪する、愚かな羊ども。
 だからと言って、カルト宗教団体のような狼に与する気もない。あいつらがいなければ、父親は平穏に勤めを終え、悠々自適の老後が送れたのだ。
 羊も嫌い、狼もいや。となれば、残るは牧羊犬の道だけだ。
 愚かな羊どもを、吠えたて、脅して、柵の中に押し込めておく牧羊犬。狼と戦い、噛み殺すシェパード。それこそがみひろの望みだった。
 だが、麻里子にそんなことまで話す気はない。どう誤魔化そうかと思っている内に、彼女の方から話題を変えた。
「企画庁が、公安と調査庁のデータベース統合をやってますよね。ゆくゆくは組織自体もひとつになるって聞きましたけど」
「……治安維持省のことよね」みひろはサンドイッチを齧った。「もともと、調査庁の前身は戦前の特高警察で、警察とは出自が違う。公安は個人も対象にするけど、調査庁は団体だけって住み分けもある」
「とはいえ、現実に業務は被ってます。こっちが追ってたネタを調査庁も追ってて、変なとこで鉢合わせして、監視がバレそうになったりもします。だったら、同じ組織にしちゃえってことですよね」
「そうするとポストが減るわよ。役人的においしくない。うまく行くとは思えないな。それより、もっと積極的に協力する体制をつくればいいのよ」
「あたしたちみたいに?」麻里子はおにぎりを頬張って微笑んだ。
「そう」みひろはアンパンを齧って微笑んだ。「あたしたちみたいに」
 食事を終えても、通るクルマはまったくない。秋の、いい季節ではあるが、紅葉にはまだ早く、平日では人出もないのだろう。
 しかし、気持ちのいい快晴である。仕事でなければ、クルマを降りて深呼吸をしたいところだった。
 昼休みのせいか、企画庁の誰彼からの電話やメールもない。まるで世界から切り離されたような、平和な気分を味わっていると、不意に麻里子が緊張した。
「出て来ました」
 言われてみれば、山道の奥で木々が微かに揺れている。と思ったら、ベンツが現れた。通りに出ると、来た方向に戻る形でハンドルを切った。
 麻里子は暫く待ってから、ゆっくりとスバルをスタートさせた。
 さっきのコンビニを過ぎて、最初の分かれ道に差し掛かる手前で、ベンツのリアを捉えた。さすがに尾行がうまい。
 ベンツは湖の方に折れた。道がゆったりとした下りになる。そしてそのまま湖沿いの道に入ると、やがて大きなリゾートマンションの前で減速した。ウィンカーが出ている。地下駐車場に降りるスロープがある。
 ベンツはそこへ消えた。
 麻里子はマンションの前を通り過ぎ、次のカーブを曲がったところでスバルをとめた。
「あのマンションに誰かいるのね」みひろが言った。「青龍会かしら。そこで指示を受けるのかも」
「あるいは、もう本番」
「こんな昼間に?」
「わかりませんよ」
 麻里子はクルマを降りて、曲り角まで走った。そこから様子を窺うつもりだ。二人では目立つので、みひろは助手席に残った。
 しかし、麻里子はすぐ戻った。「もう来ます」
 打ち合わせにしても早すぎる。このドライブは、仕事とは関係がないのだろうか。
 さっきの道に出ると、ちょうどベンツが駐車場から現れ、別荘に引き返していく。だが、すぐにとまった。運転席からスキンヘッドの若い男が降りて来る。
「松井です」麻里子が囁く。
 松井はきょろきょろと辺りを見回している。
 一瞬こちらを振り返ったが、視線は流れた。尾行に気づいたわけではないようだ。
 それから上を見た。空を見たのか。天気に関心があるのか。何かをチェックしている。
 やがて首を振りながら松井直人はクルマに戻った。ベンツがスタート。遠ざかるリアを睨みながら、麻里子が言った。
「下見ですね」
「下見?」
「そうです。地下駐車場をざっと見て、いまはマンションの前をチェックしてました」
「ということは……」
「ええ」麻里子はアクセルを踏んだ。「ここにターゲットがいる。もしくは、いまは留守で、その内帰って来る」

7 友坂澄生

「オフシーズンだからなぁ」ハンドルを握るナオ先輩がぼやいた。
「昼間だから出払ってるってことはない?」澄生が訊いた。「夜になったら帰って来るとか」
「う~ん。でも、やっぱ誰も来てないから、がらがらなんじゃないかな」
 駐車場の話だ。いま見たところでは殆どクルマがなかった。リゾートマンションだから、この時期遊びに来る人があまりいないのだ。そのため、駐車場はがらんとしたコンクリートの広場である。つまり、影がない。柱の影はあるが、都合よくその近くでターゲットがクルマから降りる保証もない。
「空手道場みたく、全体の電気を切るわけにもいかねぇし……やっぱマンションの前で待ち伏せかな」
「うん、夜道になるしね」
「街灯もチェックしたけど、あんまないから、暗さは充分だろ。駐車場に入っちゃう前に、クルマをとめさせて……」
「どうやって?」
「う~ん、そうだなぁ……」ナオ先輩がパチンと指を鳴らした。「道路工事とかで使う通行止めのやつ」
「え、そんなの売ってるの?」
「売ってるさ、ホームセンターとかで」
 もうナオ先輩はハンドルを切っていた。
 カーナビで近くのホームセンターを検索。指示に従って道を飛ばした。
 澄生は後部シートに並んで座っている静香をちらっと見た。
 二人のやり取りを、黙って聞いているこの子は、いま何を考えているんだろう。
 自分が人を殺す方法について、ナオ先輩と澄生が話しているとわかっているんだろうか。
 このところずっと一緒にいるが、相変わらず無口だ。もっとも澄生も口数の多い方ではない。未だに、お互いのことがよくわからない。
 それで、ぼんやりとした不安がある。
 雉沢の時は、とっさのことだった。
 園長の時もだ。
 それにどちらも仕掛けてきたのは向こうだった。
 空手道場の時も、痛めつけるだけで、殺すつもりはなかった。
 でも、今度は違う。
 最初から殺すつもりでかかるんだ。
 相手は悪いやつだけど、でも、懲らしめる程度のことじゃない。
 澄生は静香に相談もせず、勝手にナオ先輩と二人でいろんなことを決めてきた。でも、実際にやるのは静香なのだ。
 静香は自分が人を殺すことをどう思っているのだろう。
 怖くはないのか。
 嫌じゃないのか。
 訊いてみるのは簡単だけど、でももし、嫌だ、こわい、と言われたらどうしよう。
 澄生もナオ先輩も代わりはできない。
 静香だけができるのだ。
 だが澄生は、静香の気持ちを確かめる勇気がない。
 ぼくは、ずるいんだろうか。
 この子を利用しようとしているんだろうか。
 黙ってついてくるのをいいことに。
 自分が「お呼ばれ」に耐えるのが嫌さに。
 そうだ、ぼくが我慢すればいいことなんだ。中学を出るまで、「お呼ばれ」を我慢すれば、静香はこれ以上人を殺さなくて済む。
 いや、でも、そしたら静香だって、「お呼ばれ」でひどい目に遭う。
 これは自分のためだけじゃなく、静香のためでもあるんだ。
 澄生は、静香を見つめた。視線に気づいて、静香も澄生を見つめ返した。
「澄生」
 静香が、細い眼を弓なりにした。微笑である。
「あたし、頑張る」
 まるでこちらの心を読んだようだ。
 澄生ははっとして、思わず静香の左手を握り締めていた。
「うん」
 静香の頬が柔らかく染まった。
 どこか懐かしく、温かいものが生まれて、澄生のためらいを溶かしていった。
 いま、ぼくの胸の中にあるこれ。
 これが、愛ってやつなのか。
 訊けるものなら、澄生はパパに尋ねたかった。

 ホームセンターで買い物を終え、クルマに戻った時、ナオ先輩のスマホが鳴った。
 電話に出たナオ先輩は、「えっ! 今夜っすか!」と頓狂な声を上げた。
「鮎川の兄貴からだ。のんびりしてらんなくなった」
 澄生は緊張した。いよいよだ。
「多分、十時頃、こっち着く」
 とりあえず別荘に帰ったが、澄生もナオ先輩もそわそわと落ち着かず、静香だけがポテトチップを食べている。
 間もなく、突然空が暗くなった。
 庭に通じるフランス窓。雉沢の部屋を思い出させる背の高い窓。そこに、ぱらぱらと雨粒が散り始めた。
「ち、降って来やがった」
 ナオ先輩が呟く。
 雨で夜道はさらに見通しが悪くなるだろう。それがこちらにとって有利なのか不利なのか、澄生にはわからない。
 ざっと、窓を雨風がなぶった。

8 佐光

 六本木の外れ、細い路地を折れた奥。ひっそりとある隠れ家的な小料理屋から出て来た五つの影は、頭を下げて見送る二つのほっそりした影と、それに手を振って偉そうに立ち去る三つの太った影に別れた。待っていたベンツに偉そうな方が消えると、残った二つはレクサスへ消えた。
 雲が厚く、星のない夜だが、雨の気配はまだ遠い。
 リアシートの奥に座った男は、続いて乗り込んできた四十前後の男よりも若いが、口の利き方は大柄だった。「何時だ、佐光」
 佐光はローレックスを一瞥した。「八時ですね」
「したら、着くのは十時過ぎか。しんどいな」
「近くのホテル取ってもええんですけど……」
「いや、やつらのシマ、うろちょろせん方がいい」
 クルマは滑らかに動き出した。
 運転席も助手席も塞がっている。どちらの男も、リアの二人に負けず劣らず体格がいい。ボディーガードを兼ねた彼らが壁になって、フロントガラス越しに拡がる夜の東京も殆ど見えない。
「いまの秘書、食いついたか?」
 本山組三代目組長に訊かれて、佐光は頷いた。
「帰り際に渡した金、しっかり懐に入れましたから、まあ、大丈夫でしょう」
「そうか。あいつらも困ってる。そろそろ先生さまの欲求も爆発寸前やろうからな」
「難儀ですな、秘書って商売も」
「若頭ほどじゃないやろ」
 自分の暴君振りをよく知っている組長は皮肉に笑った。
 答えようがない。
「ところで雉沢、ほんまに病死なんか」
 本山組長が煙草をくわえたので、佐光はさっとダンヒルを抜いた。
「そうらしいですわ。公安が極秘で嗅ぎ回った挙句、やっぱり心筋梗塞で落着やそうです」
「ほんま、棚ボタやな」本山はふーっと煙を吐き出した。「これで、政治家はあらかた取り込めたわけやな」
「ええ。あすいく園の事務長がよこした顧客リスト、重宝しとります」
 佐光は事務長の怜悧な顔を思い浮かべた。青龍会から園に送り込まれた男。実質的に子どもビジネスを回していたのは、貝原園長というよりあの事務長だった。しかし園長の死後、青龍会は隠れ蓑として雇った副園長のばあさんを、そのまま園長に昇格させた。それが面白くなかったのか、計算高く青龍会に見切りをつけたのか、さっさと本山組に寝返って情報を提供したのだ。
 おかげで助かってはいるものの、佐光のような昔気質の人間は裏切者が性に合わない。利用価値がなくなれば、切り捨てるつもりだ。
「明日からは財界を攻めよう思います」
「まだ暫くかかりそうやな」本山組長は、ふわ、と欠伸を噛み殺した。「けど、それであすいく園ルートも終いや。ふん、ざまぁみさらせ」
「しかし、子ども好きが多いのには呆れますな」佐光はため息をついた。彼には五歳になる娘がいる。
「ああ、わしにも到底わからん。どう考えてもねぇちゃんの方がええ」
「同感です」
「ねぇちゃんと言えば、この後、もうひと汗かかなならん。箱根に着くまで寝るで」
 佐光は吸い掛けの煙草を受け取って、灰皿で潰した。

 レクサスが高速に乗ってすぐ、雲は雨を支えきれなくなった。
 ワイパーが活発に動き、対向車のヘッドライトが滲む。
 本山をそっと窺うと、本当に寝ていた。微かだがいびきまでかいている。
 しかし本山組の若頭である佐光は、のんびり寝てもいられない。他にも面倒を見なければならないシノギが山ほどあり、スマホを操ってあちこちに指示を飛ばしていた。
 佐光が惚れて盃を貰ったのは先代の組長である。この跡継ぎのボンボンではない。親に似ず、心の底で任侠を軽んじているこの男では。
 この後、こいつは芦ノ湖畔のリゾートマンションで、ミナミからわざわざ呼んだホステスとお楽しみだ。組とは無関係のマンションを借り、クルマもあからさまなベンツを避けてレクサスにした。さらにボディーガードもつけて警戒しているのに、二週間やそこら、女抜きで仕事に集中できないものか。せめて東京の女で適当に済ませるならまだしも、大阪から愛人を呼ぶなんて。
 いまは、青龍会のシマを荒らしている大事な時だ。雉沢の死、園長の死。それを使っていわば風評被害をばら撒いている。あそこのルートは、ヤバい。あれは病死じゃない。実際公安が動いている。結論は心筋梗塞で収めたが、嘘に決まっている。同じように死ぬとは限らないが、いずれバレてスキャンダルになるだろう。その点、遠く離れた大阪の子どもなら安心だ。本山組でも以前から質の高い少年少女を提供している。そういう営業活動の真っ最中なのだ。
 なのに、組長には危機意識が足りない。もしこれが敵方に知れれば、どこから鉄砲玉が飛んでくるかわからないというのに。
 内心で不満を募らせていると、スマホにメッセージが入った。女房からだった。開いてみると、娘がパパの絵を描いたから、添付するとある。早速ファイルを開けば、佐光の愁眉もたちまち開いた。
 クレヨンで描いた、四角い顔の髭面。
 佐光はしみじみとそれを眺め、もう少しで大阪に帰れるんやと自らを励ました。
 本山組が関西から子どもを調達するという噂は、大分浸透し始めている。何人かにはもう子どもを当てがい、好評を得ている。評判が知れ渡れば、黙っていても向こうからアプローチしてくるし、組長自らがトップセールスに動く必要もなくなる。
 そうだ、後少しだ。待っててね、ちぃちゃん……
 インターチェンジを降りると、箱根は本格的な土砂降りの中だった。

 夜の闇に、レクサスの黒いボディーが溶けて、濡れた路面をタイヤが噛む。
 もう何度も辿った湖畔への道を順調に下って、やっとリゾートマンションが近づいた時。
 運転手が急ブレーキをかけた。
 スマホでメッセージを打っていた佐光は顔を上げた。でかい二人のせいで、前が見えない。
「なんや!」
 いらいらして怒鳴ると、助手席の男が振り向いた。
「工事の通行止めが出てやがって」
「工事? そんなもん、昼はなかったやろ」
「そうなんですが……」
「見て来い」
「へぇ」
 助手席の男はドアを開け、出て行った。
 降りしきる雨の中へ。
 静香の左手が待つ、闇の中へ。


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