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告げ口AIと少女の左手⑩(最終回)

9 みひろ

 マンションの玄関前には植え込みがあり、背の高い庭木が数本聳えていた。その少し先に路上駐車しているスバルWRX。その陰に身を潜めた二人の女。
 雨は降りしきっているが、傘は差せない。と言うより持っていない。ホームセンターで買ったレインコートで凌いでいる。
 地下駐車場に降りるスロープを挟んで、向かって右がみひろ、左が麻里子。
 もう長い時間、こうしてじりじりと夜を待ってきた。雨が激しくなると、雨音で会話もできなくなった。その中でじっと彫像になっている。
 何台ものクルマが通り過ぎた。その内の数台はマンションの地下駐車場に消え、その都度麻里子が後を追って、本山組組長ではないと確かめてきた。
 街灯はまばらで、闇が濃い。雨がやむ気配はなく、むしろ強くなる一方だ。薄いビニールのレインコートでは、体温がどんどん奪われていく。
 マンションの下見を終えた松井直人のベンツは、なぜかホームセンターに寄った。スキンヘッドにタトゥーの若者と、小学生男女。兄弟にしては年が離れているが、親子にも見えない妙なトリオを、今度はみひろがつけた。
 三人はかなり広い店内をぐるぐると回る。ポテトチップやらのお菓子を駕籠に詰め込み、飲み物を何本か2リットルのボトルで。それから別のフロアでボードゲームやトランプ。最後に、業務用品の棟に移って、通行止めの標識を買った。
 支離滅裂な買い物のようだが、大体の意図はわかった。
 まず、暫く別荘に籠るのだ。菓子やゲームはそのためだ。標識は、工事に見せかけてクルマをとめるためだろう。ということは、やはりマンションへ行ったのは下見なのだ。あそこにターゲットが、どこからかやって来る。もしくは帰って来る。そのクルマをとめさせ、襲う。
「でしょうね」
 スバルに戻って報告すると、麻里子も頷いた。
「となると、こっちも長期戦覚悟ですね」
 Vプロジェクトルーム室長が、ずっと箱根で張り込んでいるわけにもいかない。ましてこれは任務ではない。
 麻里子にしても、同様だ。いくら単独行動が多い公安でも、そうそう芦ノ湖にもいられまい。
 だが、麻里子は言った。
「あたしは何とでもなります。みひろさんは東京に戻ってください。もし事前に決行のタイミングがわかったら連絡しますから」
 しかし、それでは肝心な時に間に合わない。せいぜい麻里子にカメラで撮影しておいてもらうくらいが関の山だ。
 みひろが悩んでいると、松井たちが駐車場に戻って来た。カートで運んだ大荷物をベンツのトランクに入れる。その時、彼のスマホが鳴った。
 松井が素人らしく、何の警戒もしていなかったこと、地声が大きかったことが、みひろたちに幸いした。
 電話に出た彼は、こう叫んだのだ。
「えっ! 今夜っすか!」
 これで場所と時間がわかった。
 正確な時間まではわからないが、お菓子とゲームが無駄になったことはわかった。
 もちろん、短いひと言だから、まったく関係ない話の可能性はある。しかし、みひろは確信していた。
「もし、あの子が今夜人を殺すとしたら」みひろは麻里子の顔を見た。「どうする?」
「とめるかって意味ですか?」
「うん。未然に防げば、どうやって雉沢や園長を殺ったかはわからない。そこまで見届けてからだと、助けるには遅すぎるわ」
「方法がわからない以上、何とも言えませんね」麻里子は唇を噛んだ。
「相手は、本山組の組長よ。そんなやつなら死んでもいいから、真相を見届ける?」
「……」
 麻里子は答えなかった。
 みひろもそれ以上追求しなかった。
 じゃあ、みひろさんは? と反問されたら、答えようがなかったからだ。
 静香の真相を知りたい。
 しかし、そのために殺人を見逃していいものか。
 ベンツが慌ただしく別荘に戻って行く。
「とりあえず、こっちも準備しましょう」と麻里子が言った。
 もう別荘を監視する必要はない。今夜、あのマンションに彼らは来る。だから、先回りして現場に張り込む準備である。その点、松井がホームセンターに来てくれたのはお誂え向きだった。食料や飲み物の他に、フードのついたビニールのレインコートを買った。麻里子が天気予報をチェックして、終日晴れの予報が変わっているのに気づいたからだ。
 そして、それは役に立った。

 九時頃、とうとう松井のベンツが現れた。みひろは麻里子と視線を交わした。
 これまでにも、ここには多くのベンツが通り掛かった。高級リゾートマンションでは、最もありふれた車種なのだ。
 しかし、駐車場のスロープに降りる時、運転席に松井の横顔が見えた。リアにも小さな人影がふたつある。間違いない。
 みひろと麻里子はスロープの入り口に近寄って、奥を窺った。
 ベンツは駐車場の中をぐるっとひと回りし、また外へ出て来る。予定が変わってターゲットが既に帰っていないか、確かめたのだろう。見咎められないよう、みひろたちは入口まで下がり、建物の影に身を潜めた。
 だが、ベンツは出て来なかった。スロープを昇る途中でとまったらしい。ドアが開き、微かな足音がして、スロープの残りを歩いてくる。
 みひろも麻里子もさらに雨の中へ後ずさった。
 三人はスロープの入り口で立ち止まった。みひろのいる陰の、すぐ脇だ。
 みひろは唾を飲んだ。すぐそこ。手を伸ばせば届くところに、三輪静香がいる。
 三人は何か話しているが、雨音にかき消されて聞こえない。
 果たして本当に、一連の殺人は小学校六年の少女がやったのか。
 それがもう少しで明らかになる。
 不意に、着信音が聞こえた。松井だ。短い会話を終えて、通りに出た。手に、例の標識を持っている。
 ターゲットが近づいたことを、尾行している青龍会の人間が連絡してきたのだろう。
 もう十時近い。通行は途絶えている。その道に、標識を置いた。蛍光塗料が闇に光る。
 松井がさっきの位置に戻った。すると五分ほどで、もう一台のクルマが現れた。
 角を隔てて伝わってくる三人の緊張で、みひろはその時がきたことを知った。
 暗くて定かではないが、レクサスのようだ。それが水を跳ねて急停止する。ドアを開けて大男が出て来る。傘も差さず、雨に濡れたまま、標識に近づいていく。
 その時、スロープから小さな影が飛び出した。ビニール傘を差している。スカートをはいた後ろ姿は、確かに少女だ。地下駐車場から漏れる僅かな光に照らされて、とことこと大男に近寄っていく。
 大男は標識の向こうを眺めている。本当に工事などしているのか、確かめているらしい。だから、腰にも届かない小さな女の子に気づかなかった。
 ざーざーと降る雨音の向こうで、少女が何か言ったようだ。大男は驚いて下を向くと、突き出た腹を窮屈そうにへこませて、身を屈めた。少女の小さな顔に、大きな顔を寄せて、何か言っている。少女の頭をよしよしと撫で、道の端に寄るよう促している。
 少女は、こちらを振り返った。
 街灯の遠い明かりに照らされた、剃刀の切れ込みのような細い眼、子どもながらにしっかりした鼻、大きな口、厚い唇。
 みひろは静香から、魅入られたように目が離せなかった。
 途方に暮れた表情。大男の優しい態度が想定外で、どうしたらいいのと指示を求めている。
 しかし答えが返る前に、業を煮やした大男が静香をひょいと抱き上げた。太く逞しい腕が道路脇に置物のように置く。
 すると、スロープから影が飛び出した。松井ではない、もうひとつの小さな影。
 友坂澄生!
 あすいく園で会った、天使のように美しい少年。
 傘も差さずに雨を突っ切り、澄生は大男に飛びついた。両手を風車のように振り回して、鉄のような胸板にぶつけている。
 大男にとって、蚊にたかられた程度の攻撃だが、意表を突かれたせいか彼はよろめいた。そして雨に靴を滑らせ、尻もちをついた。澄生はその上にのしかかる、と言うよりはよじ登って、小さな拳を懸命に振るう。
 すると、雨音を縫って男の怒声が響いた。
 レクサスのウィンドウが降りて、男の顔が覗いている。大男がもたついているのに、怒っているのだろう。その叱咤で気を取り直し、大男は立ち上がって、澄生を、ぶん、と腕の一振りで払った。
 澄生は飛んだ。
 標識に後頭部を打ちつけて、そのまま黒い道路に落ちた。
 静香が傘を放り出し、その大きな口をいっぱいに開いて、つんざくような悲鳴を上げた。
 そして、みひろは見た。
 柳に蛙の図そのままに、大男の胸元に飛びつく少女。さしもの巨漢もたじろぎ、ゆらっと後ろに一歩引く。
 大男の胸元で何が起こっているのか。みひろの位置からは見えない。
 すると、大男が突然苦しみ始めた。棒のように突っ立ったまま、激烈な痛みに全身を痙攣させている。ぐおー、という獣の咆哮のような呻きが聞こえる。
 静香は男の胸から離れない。男がぶるぶると巨体を震わせて、小さな体が嵐の小舟よろしく振り回されても、必死でしがみついている。
 子どものか細い手で、よく振り飛ばされないものだ。
 いや、か細いのか?
 みひろは闇に目を凝らした。
 はっきりしないが、どうもその左手は、幼い少女に相応しくないもののようだった。
 肌の色も、人間のそれとは思えない。何か別個の生き物ようだ。蛇とか、爬虫類とか、そんなぬめぬめとした……
 そこへ、もうひとつの影が駆け寄った。
 レクサスのドアが開いている。運転手が応援に来たのだ。だが、それより先に、大男が苦痛に耐えきれず、どお、と倒れた。傍まで来ていた運転手も巻き添えを食って、やはり、どお、と倒れた。
 二人とも失神したのか、濡れた路上に長々と横たわった。
 そこでようやく、みひろは我に返った。
 彼女は叫んだ。
「やめなさいっ!」
 それは、男たちに言ったのか。少女に言ったのか。

10 佐光

 助手席の八橋に通行止めの標識をどかせにやって、暫く佐光はまたスマホでの指示に戻った。
 だが、ふと嫌な予感がして、顔を上げた。
 助手席からでかいのがいなくなったので、フロントガラス越しの風景を遮るものはない。だが、雨のスクリーンが邪魔して、はっきりとは見えなかった。
 ただ、八橋の大きな影が屈んでいるのがわかった。その目線の先に、いつの間にかもうひとつの影。
 傘を差した子どもらしい。それも裾の広がったシルエットからすると、女の子だ。
 こんな雨の夜更けに、こんなところで?
 標識と八橋の間に割り込んで邪魔しているようだ。それに優しく話しかけている八橋。
 相撲取りだったが怪我に泣いて幕下どまり。誰にも知られず引退して、結局この業界に流れ着いたが、根は優しい。それにあいつも小さい娘がいる。邪険に女の子を追い払えない気持ちは佐光にもわかった。きっと、「お嬢ちゃん、夜だし、雨だし、早くおウチに帰んな」などと言っているのだろう。
 しかし、女の子はなかなか動こうとしない。しきりにマンションの地下駐車場に入るスロープの方を振り返っている。
 さすがに気のいい大男も業を煮やしたか、女の子をひょいと抱き上げ、道路脇に移した。そして標識を片づけるべく手をかけた。
 その時だ。スロープの方から再び影が飛び出して来た。
「はあ?」
 佐光は思わず呟いた。またガキかよ!
 今度は男の子らしい。傘も差さずに両手を振り回し、八橋にむしゃぶりついた。佐光は柄にもなく、首筋の毛が逆立つのを感じた……心霊現象だろうか?
 八橋も同じ恐怖を覚えたらしい。生身の人間相手なら後ろを見せるはずのない巨漢が、不意を打たれたにせよ、尻もちをついたのだ。
「う……ん」
 隣で、本山組長が身じろぎした。そろそろ目を覚ましかけている。マンションの目の前でもたついていると知ったら、機嫌が悪くなる。佐光は後部ウインドウを下ろし、首を突き出して八橋に怒鳴った。
「おい! はよせんかっ!」
 慌てた八橋は、もがきながら立ち上がり、力任せに腕を振った。
 少年の小さな体は呆気なく飛んだ。標識に激突する、鈍い音。濡れた路上に、くたっと横たわる。
 駆け寄った少女は必死で揺するが、ぴくりとも動かない。
「いやあああああああああ!」
 小さな体から想像もつかないほど大きな悲鳴が迸り、それは雨音を貫いて佐光の耳にも届いた。
 少女が、ゆらっと立った。糸の切れた操り人形のようにふらふらと、まだよろめいている八橋に飛び掛かり、胸の辺りにしがみついた。
「しつこいやっちゃな」
 これでは埒が明かない。佐光は運転手に加勢を命じた。
 運転手はレクサスを降りた。手庇で雨から眼を庇い、八橋に駆け寄る。
 すると、ダニのように少女を貼りつかせたまま、八橋が一歩こちらによろめいた。
 ちょうど運転手が辿り着いた瞬間だった。
 ぶつかった二人は共倒れになり、どお、と路上に倒れた。
 佐光は、はっと息を飲んだ。
 八橋の胸元にしがみつく少女。その手が、大男の分厚い胸板を破って、体の中に食い込んでいるように見えた。
「どないした」
 太い声に、佐光は飛び上がった。目を覚ました本山が、辺りをきょろきょろしている。
「どこや、ここ? なんでとまってる?」
 しかし佐光は親分の問いに答えるどころではなかった。これまで幾多の修羅場を潜り抜けて来た動物的な勘が、激しくアラームを鳴らしている。
 彼はレクサスを降りた。二歩も行かない内にアルマーニがずぶ濡れになる。だが、佐光は走らない。大物は走らない。水たまりをばしゃばしゃと跳ね散らかし、揉み合う人影の塊にゆっくりと歩み寄った。
 その間に、悶えていた八橋の動きがやんだ。運転手も路面にぶつけたか、後頭部を抱えて蹲っている。その脇に男の子が伸びている。
 すると、「やめなさいっ!」という鋭い声がした。しかも、女の声だ。
 一体今夜はどうしたんだ?
 得体の知れない子ども。そして女。
 佐光は声の主の居所を探して、雨と闇を透かし見る。
 その間に、八橋の上から転がり落ちた少女が、続けて運転手の胸をどん! と突いた。
 運転手は仰向けにひっくり返った。少女も一緒に運転手の、これも小山のような体に引きずられる。
 今度は佐光もはっきりと見た。
 やはり、手が胸の中に潜っている。
 佐光は唐突に、子どもの頃、テレビで見た心霊治療を思い出した。

11 みひろ

 みひろは隠れ場所から飛び出そうとした。
 だが、一瞬早くすぐ横を駆け抜けた黒い人影があった。
 松井直人だ。
 静香の応援か。澄生の救援か。
 とにかく後を追おうとした時、麻里子にも先を越された。
 だが彼女は闇の中で縺れ合う静香たちではなく、松井を追いかけた。そして、その背中に飛び蹴りをくわせたのだ。
 松井は前のめりに転倒した。
 なぜ? みひろは戸惑った。
 静香と澄生を助けるには、松井も利用した方がいいはずなのに。

12 佐光

「佐光っ、はよ何とかせんかい!」
 背後から、本山組長の声が響く。
 何とかって、どうすりゃいいんだよ。
 佐光は突然、何もかもがばからしくなった。
 大体、子どもビジネスの営業に組長自らが出張る必要はなかったのだ。佐光一人の方がずっと目立たないし動きやすい。なのに、「これからはCEOが自ら飛び回る時代やで」と三流コンサルに吹き込まれたか、聞いた風なことを言ってしゃしゃり出て来た。おかげでわざわざ箱根にマンションを借り、挙句、その前でずぶ濡れになっている。
 目の前に、胸に少女を貼りつかせたまま、痙攣する運転手がいる。その動きが収まると、少女はまたころんと巨体から路上に落ちた。
 間髪を入れず、次は佐光に向かって来る。
 本山組若頭は、ただぼんやりと眺めていた。

13 静香

 澄生が倒れた時、目の眩むような怒りに駆られて、静香は左手と一体になり、大男を倒した。
 次の大男も、その流れで何も考えずに心臓を捻り潰した。
 しかし、三人目の大男に立ち向かいながら、静香の意識は次第に醒めつつあった。
 左手はまだ荒れ狂っている。長い長い時の中で、降り積もり、凝り固まった憎しみ、恨みが、どくどくと血管を脈打っている。
 静香は、そんな左手が怖くなっていた。
 もうやめたい。
 しかし、左手に引きずられて、静香は三人目の生贄に飛び掛かった。

14 佐光

 少女に、ちぃちゃんの面影が重なる。
 佐光は初めから嫌だった。子どもを当てがって金を儲けるなんて。もし自分の娘がそんな目に遭わされたら、きっと耐えられない。しかし、暴対法で多くのシノギが封じ込められ、半グレどもにのさばられ、背に腹は代えられず流されてきた。
 そのつけが、とうとう回ってきたんや。
 少女はもう、目の前にいた。いや、身長一八〇センチの佐光からすれば、目の下と言うべきだろう。
 佐光は、俯いた。子どもを利用した報いに、子どもに殺されるんだと思った。
 下から、何か不気味なものが伸びて来る。
 それを見て、さすがに覚悟したはずの佐光も、目を剥いた。
 左手。
 だが、これが子どもの手か。
 恐怖に慄いた彼はとっさに後退り、ホルスターの拳銃を掴んでいた。

15 みひろ

 静香と、静香に銃を向けた男。
 みひろは麻里子に怒鳴った。「銃を持ってるわ!」
 もちろん公安企画庁の職員は拳銃など携行しない。ここは公安刑事である麻里子頼みだ。言われるまでもなく、男を威嚇して、発砲をやめさせるだろう。
 思った通り、麻里子は拳銃を抜き、中腰になって構えた。そのシルエットが駐車場から漏れる光を受けて、彫像のように雨に浮いている。
「銃を捨てろ!」
 麻里子が叫んだ。

16 佐光

 しかし、静香には援護など必要なかった。
 佐光が拳銃を突きつけようとした時には、左手がもう相手の胸元に、どん! と突き刺さっていた。
 何か胸に潜り込んだと思う間もなく、その何かが心臓を途方もない力で握り潰した。
 佐光は絶叫を上げた。若い頃、指をつめた時にも呻き声ひとつ漏らさなかった男が。
 佐光は、闇に沈んだ。

17 みひろ

 みひろは、駆け寄ろうとした。
 背後から、鋭い声が襲った。
「動かないで!」
 振り返ると、拳銃を構える麻里子がいた。
 銃口が、自分に向けられているのを、みひろは見た。

18 静香

 静香は、男の体から降りた。
 雨が背中を打ち、はあはあと荒い息をつく。
 もう嫌。もうやめたい。もうたくさん!
 だが、左手の怒りは収まらない。
 疲れきった体が、無理に立ち上がらされた。

19 本山

 ヘッドライトの中に、ゆらりと立ち上がった少女は、本山の目に、幽鬼と映った。
 広域指定暴力団に君臨する男が、ぶるぶると震える手でドアを開け、降りしきる雨の中にまろび出る。
 この場から逃げ出そうとした時。
 本山は後頭部に、雨とは違う、鉄の金属的な冷たさを感じた。
「おっと、どこへ行くのかな、本山さん」
 男の声が、した。

20 みひろ

「どういうつもり?」
 みひろの問いに、麻里子は淡々と答える。
「後はこちらでやりますから、凌野室長はここでお引き取りください。お疲れさまでした」
 暗くて表情が見えない。
「何ですって?」
 麻里子……いや、安西刑事は無表情だった。こちらに向けた銃口はぴたりとみひろに照準を合わせている。
 友だちだなんて! まったく自分のお人よしにも呆れる!
 相手は初めから利用する気だったのだ。松井のヤサを張っているだけでは、情報が不充分だ。モナミ経由で澄生と静香の動向を掴めればと考えて、仲間面して協力させたのだ。
 おかげで、芦ノ湖に行くことがわかった。それでお役御免のはずだったが、みひろはのこのこついて来てしまった。
 だから安西は、静香を追跡しつつ、みひろをも監視していたのだ。
 でも、「こちら」って?
 一体、何のために?

21 本山

 本山の後頭部に拳銃を突きつけた男は、向かって来る少女の方へ、背中を蹴った。
 くそ、蹴りやがった! 本山組組長の、この俺を!
 だが抵抗もできず、本山はだらしなくたたらを踏んで、少女の前に膝をついた。少女は細い眼でこっちをじっと睨んできた。そして、彼の胸を、どん! と突いた。
「ひぃぃぃぃぃ!」
 激痛に、本山の口から悲鳴が溢れた。

22 みひろ

 本山の悲鳴を聞いても、安西の銃口はぴくりともしない。視線も逸らさない。
 だが、みひろは振り返った。そして、クルマから逃げ出そうとした四人目の男が、胸に静香を貼りつけたまま、くず折れるのを見た。
 その後ろに立っている、五人目の痩せた男。片手に拳銃。もう片手では、雨中の散歩でもするかのように、黒い蝙蝠傘を差していた。
 男は拳銃をしまうと、身を屈め、四人目の男の胸にしがみつく静香に、その手を伸ばした。
 すると、その後ろにいつの間にか別のクルマがとまっていて、ヘッドライトを点けた。まるで、男の手元を照らしてやるかのように。
 白いハンカチが静香の顔を覆い、暫くして取り去られる。
 意識を失った静香の体を、男が抱き上げる。
 ヘッドライトに照らされた、その横顔。
 逆光だが、わかった。
「小中井……」
 安西の上司は、クルマのリアシートに静香を乗せた。そして傘を閉じて自分も悠然と乗り込む。
 ドアが閉まり、クルマが動いた。
 いまは無人となったレクサスをよけて、みひろの目の前をゆっくりと通り抜けていく。
 ハンドルを握る男の顔は、見えなかった。
 もし見えていたら、それもまた馴染みの顔だったのだが、仮に気づいてもみひろにはもはや驚く気力もなかっただろう。
 クルマは闇に去り、はっと気づくと、安西刑事もスバルも消えていて、みひろは一人きりだった。
 いや、正確には、すぐそこに蹴り倒された松井直人が伸びている。
 しかしそれ以外には、誰も生きていなかった。
 残されたのは、四人のヤクザの死体。
 そして、幼い少年の死体。

23 小中井

「わざわざいらっしゃらなくても、私に任せてくださってよかったんですけどね」
 後部座席で、静香の頭を膝に乗せた小中井が言った。
「別に、小中井警部を信用していないわけじゃないよ」運転手は言った。「でも、やはり自分の目で見ないと信じられなくて」
「そりゃそうです」小中井は頷いた。「あの、松井ってチンピラが撮った映像だけじゃねぇ」
「ああ。ま、映像は映像で上を説得する役には立ったけどね。松井があんなものをクラウドに上げるほどバカで助かった」
「ですね。さすがにあれがなかったら、誰も信じませんよ、子どもが殺りましたなんて報告したって」
「あっという間に、ヤクザ四人を始末したからなぁ」
「想像を越えてましたね。こんな」小中井は自分の膝を見る。「いたいけな女の子が」
「殺し屋少女……キラー・ガールかな、映画のタイトル風に言えば」
「しかも、素手ですよ、素手」
「あれを素手と言うのかね」運転手はため息をついた。
 小中井も、不気味に変貌した静香の左手を見た。それが本山組組長の胸に突き刺さったところを。あの残像は、一生網膜から離れまい。薬で滾々と眠る静香の左手は、もう普通の人間の手に戻っているが、まだ触る勇気はなかった。「とにかく、官房長官も満足でしょう。こんな途方もない武器が手に入って」
「まったく、途方もないよ。誰も警戒しない。まさか子どもがってね。万一目撃者がいても、誰も信じない。結局、心筋梗塞で病死になる」
「完璧な暗殺者ですね。怖いぐらいに……」
「ところで、あいつらの死体はほったらかして大丈夫なのか?」
「ええ、青龍会が始末するでしょう。連中も心筋梗塞に見せかけたいですからね。ちゃんと用意してるはずです」
「とはいえ、四人揃って病死じゃさすがにおかしい」
「ですから、本山だけ残して後はどっか闇から闇です。組長は突然ぽっくり、ボディーガード連中は裏切って殺したと疑われるのを恐れ、ずらかったって体でしょう。厳密に言えばナンバーツーの若頭まで逃げるのは変ですが、そこまでは青龍会の知ったことじゃない。本山組の残党があーだこーだもめるのを、知らん顔で笑ってりゃいい」
「あわよくばこれがきっかけでガタガタになってくれれば万々歳か」運転手は小気味よさそうに含み笑いをした。「ただ、キラー・ガールが消え失せたのは、青龍会にとっても謎として残るわけだな」
「ええ。しかし、そんな反社のことより」小中井は笑う気にはなれなかった。「この子のことですよ。官房長官、一体どう使うつもりなんですかね」
「さあ……そこまでは知らないな。でも、治安維持法の復活が最終目的であることは変わらないよ」
「それはそうでしょうね。あの人の祖父さんは、戦前、特高のトップだったし」
「自分自身、警察官僚の出身で、長いこと公安畑を歩いてる。現在の日本の治安が、人権思想の弊害でズタズタにされているのを体験している」
「ろくでもない連中が権利権利で野放しですから」
「それにはまず、九重首相の誕生が必要なわけだ」
「そしたら総裁選ですね……あれ、まさか」小中井は柄にもなく薄ら寒い思いをした。「自分の政敵をこの子……」
「それは言わぬが花だろう」運転手は刑事を途中で遮った。「それより先に調べることが山ほどある。どうして、左手があんな風に変化するのか。それに、どうも自由自在に使えるわけじゃない。何か一定の条件を満たさないと、左手が起動しないんじゃないかな。今夜の観察でそんな印象を受けた。だとしたらしっかり把握しておかないと、いざって時困る」
「それに、そいつを把握してる局長を、官房長官も手放せなくなると」小中井はにやっと笑い返す。「そして、ゆくゆくは公安、公安調査庁、公安企画庁を合体した治安維持省が設立、増見局長が初代事務次官……その先はご自身も政界進出ですかね」
「ふん」公安企画庁情報分析局局長・増見は曖昧に笑った。
「もし、メカニズムがわかったら、こんな子どもがぞろぞろ作れちゃったりするんですかね」
「まるでホラー映画だな。しかし、案外可能かも知れない。文系には想像もつかないね。それこそ研究所のやつに訊いてみればいい」
「研究所か」小中井はあくびを噛み殺した。「私、初めて行くんですけど、遠いんですよね」
「近くはない」
「やれやれ」
「寝ててもいいよ、小中井警部」
「いえ、大丈夫です」
「それじゃ、眠気覚ましに音楽でもかけようか。好きなミュージシャンは?」
「私、古風にビートルズ・ファンですが」
「お、いいね。私もロックはブリティッシュ派だ。それじゃ、ナビア、ビートルズをかけてくれ。目の覚めるようなやつを」
「え、ナビア?」
 小中井が目を丸くすると、カーナビが女の声で言った。
「はい。ビートルズの、目が覚めるような曲をおかけします」
 すぐに激しいエレキギターのイントロが流れ始める。
「これ、いま開発中のカーナビなんだ。ナビア、小中井警部に挨拶を」
「はじめまして、小中井さま。よろしくお願いいたします」
 小中井は居心地の悪さを感じた。「でも局長、これも、ダダ漏れなんですよね」
「ん? 企画庁にってこと? 大丈夫大丈夫。ベッキオと違って、サーガテクノロジーは絡んでない。自動車メーカーが開発してるAIなんだ」
「クルマのAIって、自動運転用かと思ってました」
「それはそうさ。ただ、エアコンとかステレオも一元管理した方が便利だし、ついでに話し相手にもなるわけだ」
「なるほどね。どうもAIには警戒心がねぇ……」
「ふふ、ベッキオを褒めてくれてたじゃないか」
 まあ、あれは凌野みひろ室長が美人だったからサービスしたのだ。もっともその愛人がこの局長だと思うと、少々鼻白むところもある。
 こいつは部下であり愛人である彼女を平気で裏切ったわけだが、それでもまだしれっと抱き続けるのかな。続けるんだろうな。それぐらい鉄面皮じゃないと、こんな稼業はやってられんし。
 もっとも、さっき通り過ぎた時、室長は運転しているのが増見だと見分けたかも知れない。それで揉めたらいい気味なんだけどな。
 ジョン・レノンの歌声が曲のサビに差し掛かった。偶然の選曲なのだろうが、その歌詞の意味に小中井は不思議なシンクロニシティを感じた。
 確か、日本語に直すと、こんな歌詞だったはずだ。

 ♪僕と僕のおサルさん以外 みんな隠し事をしてやがる


エピローグ 佐賀恭平


 次々と情報が入って来る。
 それがこんなに心地よいものだとは想像もしなかった。
 何と言うか、自我が無限に拡張していくような、汲めど尽きせぬ力が満ちるような。
 データがとめどなく入って来る快感に、最近の佐賀恭平は夢中になっている。
 さて、今日はそろそろ客がある。
 日本からはるばるやって来る、凌野みひろだ。
 芦ノ湖じゃひどい目に遭ったからな。
 静香をまんまと小中井警部にさらわれて、安西刑事にも置き去りにされたわけだから、雨の中を一番近い箱根湯本まで歩いたはずだ。はらわたを煮えくり返しながら。
 ようやく駅に着いても、むろん終電はないから、近くのビジネスホテルにでも転がり込んだか。
 だから、フェデックスで飛行機のチケットを送ってやった。しかもファーストクラスを奢って。せめてオーストラリアで休暇を過ごさせてやりながら、ちょっと話そうと思って。
 オーストラリア北部、ダーウィンの北百キロ、アラフラ海とティモール海の合流点に点在するテイウィ諸島。その九つある小さな無人島のひとつが、佐賀の現在地である。
 メモには、こう記した。
『静香ちゃんのことで話したい。いつでもオッケー』
 もちろん電話がかかってきが、そっちは着拒。そうすればあの働き者女も、静香への好奇心やみ難く、休みを取るだろう。
 とはいえ、Vプロジェクトが早々と正式採用となったいま、来期の準備に忙しいはずだ。課になれば任務の幅も広がる。出向の木月と和藤一人じゃ足りないから、部下の人選もあるだろう。
 それを片づけてからだと、二、三週間かな、と思っていたら、案の定チケットを送ってかっきり二十日後、みひろが一週間の休暇届を出したと木月から報告があった。するとその直後、相変わらず電話に出ない佐賀に、本人からもメールで到着の日時を知らせてきた。
 それが、今日なのだ。
 そろそろ空港へ行った迎えが、クルーザーでこの島まで連れて来る頃だ。
 せっかちなあの女は、休息も取らずに俺のところへ来るだろう。
 玄関ホールを抜けて、パティオに出て、無粋なあいつには名前もわからない花々が咲き乱れる中、こんこんと清水の湧く噴水やら、彼方に広がる紺青の海やらもろくに眺めず、隅っちょの小さな納屋に入る。大きな脚立があって、それをどけて板壁の一部を押すと、ちょうど脚立が置いてあった部分の床が、ゆっくりと口を開く。わが秘密基地に通じるエレベーターだ。舞台のせり上がりと同じ仕掛けだが、そんな楽しいもてなしも、現実的なあの女は子どもっぽいとか何とか難癖をつけるだろう。
 ゆっくり降りて行く時も、たまになら楽しいけど、毎日だと遅すぎていらいらするわね、などとほざく。
 地下は、清潔に管理された広大な空間。床はメタリックブルー。その上を大小無数の機器類がびっしりと埋め、中央に細長いケース。ま、はっきり言って、棺だね。全長二メートル、高さ一メートル半。シルバーの金属製で、蓋に当たる部分に透明なガラス窓。
 そこから中を覗いたあいつは、息を飲む。
 佐賀恭平が、そこに横たわっているからだ。

「よっ」
 棺の脇のモニターに、目つきの悪いコアラとして登場した佐賀は、みひろに手を挙げた。
 ――佐賀くん……
 呆気に取られたみひろの顔。してやったり。
 モニターに向かい合って椅子にかけたみひろは、目の前のコアラと、棺の中の佐賀を交互に見ている。
 ――まさか、こんな風になってるなんて……
「夢にも思わなかったろ?」佐賀は笑った。「人類の永遠の夢、不老不死。いまのとこ、こいつを実現するにはふたつの方向がある。ひとつは、アマゾン創業者ジェフ・ベゾスなんかがやろうとしてるサイボーグ化だな。一方は、自分の全記憶をデータ化して、仮想人格つくって、仮想空間で永遠に生きるってやつ。こっちはフェイスブック創業者マーク・ザッカーバーグのメタバースが代表選手。
 ――それで佐賀くんは、ザッカーバーグ派なのね。
「ま、ベゾスみたいにサイボーグに行っちゃうやつってのは、やっぱ肉体ってもんから離れられないわけよ。よっぽど肉体的な快楽が忘れられないんだろうね。アートで言えば具象かな。そこいくと俺なんか、飛行機事故でアウトになるまでに、大概のことは経験しちゃって、もういいや感が満載なわけ。あれでおっ死んでもよかったんだけど、なぜか生き残っちゃってさ。半身不随になってみると、体ってもうほんと邪魔でしかない。それより抽象を目指すっていうか、結局人間って生きてきた中で蓄えた記憶やら知識やらの、つまりは脳内にあるデータがすべてじゃん。そいつをシステムに置いときゃ、もう体要らんなって」
 ――じゃ、こんな素敵な島に住んでても、心地よい潮風も感じないし、潮騒の響きも聴こえないし、楽園みたいに綺麗な風景も見られない。なんでわざわざ日本からこんなところまで来たの?
「金があるって、案外めんどいのよ。いろんなやつが寄ってくるし、いちいち相手しなきゃならないし。でも、どこにいるかわからなけりゃ、諦めるじゃん。だから、ここ、絶対秘密だかんね」
 ――わかってるけど。まあ、アバターがコアラだとオーストラリアかなってみんな思うわよ。
「いや、案外裏をかいて全然違うとこって思うんじゃね」
 ――そうかなぁ。
「どのみち、ばっくりオーストラリアっても、広いっしょ。まずバレないと思うよ。時差もあんまないから、リアタイの経営会議とか楽だし」
 ――この体は、どういう状態?
 気味悪そうに棺を見やがった。
「まだ死んだわけじゃない。仮死状態。脳のデータもコンピューターに移植する途中でさ。自前の脳と半々なのよ」
 ――最終的にはコンピューター側に全部移るのよね。
「そうだけど、まだ技術的に完成してない部分もあってね。もうちょいかかりそう」
 ――そしたら、ベッキオとも完全に一体化するわけね。
 みひろがさらっとそう言ったので、さしもの佐賀がうろたえた。つまり、モニターでコアラがうろたえた。
「え、お前、わかってたの?」
 みひろは溜飲を下げた顔をした。してやられたり。
 ――わかるわよ。佐賀くんはベッキオと一体化する。最初からそのつもりだったのね。あ、すみません。
 そう言ったのは、メイドがコーヒーを淹れてきたのだ。ひと口啜って、みひろは続けた。
 ――前に言ったと思うけど、あなた、あたしに電話かけるタイミングがよすぎるのよね。
 それで佐賀も気がついた。モニターのコアラに、なるほど、と腕を組ませる。「そっかー。それで見張られてるって気がついたのか」
 ――ほんと言うとね、気がついたのはたったいま。それまでは妙にタイミングがいいとしか思ってなかったわ。ちょうど会議が終わったところだったり、連絡待ちだったりね。でも、佐賀くんがデータになったんだったら、ベッキオシステムともリンクできるって思ったわけ。そしたら、仕事中は常時ベッキオが起動してる。パソコンのカメラを通じてあたしの行動がわかって当然よね。
「ふふふ、さすがぁ」
 ――データとデータがリンクするってことは、つまり、佐賀くんとベッキオは一体化してるってことでしょ。
 みひろの視線が柩に逸れる。
 ――でも、自分で言っておきながら、まだ信じられないんだけど。
「いや、俺もね、自分のデータ化とベッキオは別プロジェクトだったのよ」
 ――じゃあ、あたしにVプロジェクトを提案してきた時は、そんな気はなかったって言うの?
「なかったなかった」
 コアラの首をぷるぷると振らせる。
「純粋にお前の仕事に役立つと思って声かけたら、お前がパクっといったわけ」
 ――魚か、あたしは。
 みひろがむくれる。
 ――それじゃ、Vプロジェクトが動き出してから、ベッキオと一体化しようと思ったのね。
「そうそう。両方がだんだん完成してくにつれて、あれ、ひょっとして俺とベッキオ、リンクできんじゃねって。ま、閃きだね」
 コアラに、胸を反らさせた。
「天才の天才たる由縁と言おうか」
 ――自慢はいいから。
 みひろは素っ気なく一蹴。
 ――で、うまく行ったのね。
「そうなんだよ。これが案外いけちゃって、ほっほーって感じ」
 コアラに、短い前足で丸をつくらせる。もっとも短すぎて、丸は頭上ではなく、顔の前にできるんだが。ま、それも可愛いよね。
「したらね、何っつーか、いきなりぶわーっと所有データが激増するわけじゃん。ほうれん草を食ったポパイがもりもりって言うか、ウルトラマンが見る見る巨大にって言うか、ぐんぐん自分がでかくなってく感じでね。いや、すげぇぞ、これって」
 ――それでお人好しの凌野室長は、まんまとあんたが楽しむのに協力してたってわけ。
「あれ、怒ってる? 怒ってるかぁ、一応騙した感じになってるもんね。でも、悪気はなかったんだって。今日も直接会って、ちゃんと説明するつもりだったのよ。お前に先に言われちゃったけど」
 みひろはうろんな目でコアラを見、また棺の中を見る。
 考えていることは佐賀にもわかる。ところであたしは一体、いまどっちと話しているんだろうか。モニターの中のお道化たアバターか。横たわっているこの肉体か。
 そもそも、これで「会っている」と言えるのだろうか。
 大体、そんなとこだな。
 ――で……あなたはこれから何がしたいの? ベッキオと一体化して、国の治安に貢献したいわけじゃないでしょ?
「そこ、ぶっちゃけ俺も疑問なのよ」
 コアラに短い腕を組ませた。
「自分でもよくわかんなくなっちゃってねー」
 ――らしくないわね。
「だって俺も、デジタル化すんの、初めてだもん。AIと完全一体化してからの、自分のモチベーション? 生き甲斐? それも永遠だよ、永遠。結構、長いしなぁ、永遠」
 ――いまさら自分探し中?
「恥ずかしながらそうかも。でも、やっぱ情報ががんがん入ってきてシステムが拡張してくって、理屈抜きに気持ちいいし、企画庁のシステムと統合とか、ゆくゆくは公安とも、調査庁とも、なあんて聞くと、も、わくわくがとまらん。あれかなぁ、人間ってやっぱ、食べ物を蓄え始めた時から、貯める喜びに憑かれてきたのかもな」
 ――でも、結局は最初の問いに戻るわね。そうやって情報を蓄えて、大きくなって、さて、それでどうしたいかっていう。
「だよなー。堂々巡りだよなー」
 ――いまやベッキオにベッキー、子守りのモナミまでできて、広がる一方じゃない。収拾つかなくならない?
「それが不思議と大丈夫で……あ」
 コアラに、うっかりしてたと、自分のおでこを、ぺた。
「人生哲学問答になって、危うく本題を忘れるとこだった」
 ――静香のことね。
「うん。いまベッキオ、ベッキー、モナミって言ったろ、実はナビアってのもあって」
 ――ナビア? 聞いてないわよ。
「言ってないもん、まだ」
 ――まだって、その内言うつもりだったの?
「そだよ。ただね、ウチ100パーのプロジェクトじゃないの。クルマ屋さんとの共同開発。自動運転のAIにベッキオみたいな対話機能をつけたいってオファーがあって。ほら、長距離のドライバーとか話し相手がいないと居眠り運転ってあるじゃん」
 ――つまり、他社も絡んでるから、すぐには言えなかったってことね。
「それとメーカーから、このコラボはちっと内緒にって言われててさ。自社開発ってことにしたいらしくて、ま、いいよって」
 ――その分口止め料を取ったでしょう。
「てへ。でも、完成したらお前には言うつもりだったよ。クルマの中も、いろいろ密談がありそうじゃん。公安企画庁にも有益だろ」
 ――わかったけど、それが?
「そんでね、偉いさんでクルマ好きの連中が、まだ試作段階だっつーのに使わせろってダダこねんの。そのわがままさんの一人がお宅の局長」
 みひろの眉がぴくっと動く。
 ――局長って……増見?
「公安企画庁情報分析局局長って言ったら、そいつだよね。で、これはちょっと言いにくいんだが」
 ――あら、佐賀くんに言いにくいことなんてある?
 コアラに、くくく、と笑わせ、ついにでお腹も抱えさせた。
「お前ってほんと、きっびしー……じゃ言うけど、お前の愛人なんだよな」
 ――答えなきゃいけない?
「いや、別に。単なる余談よ。で、その増見局長が無理矢理使ってるナビアね。ベッキオシステムとは繋いでないんだけど、俺とはもう繋がっちゃってんの。で、あれこれお話が流れて来た中に、こんなのが」
 そこで空中に浮かび出たPLAYボタンをコアラに押させた。
 男の声が流れて来る。
『わざわざいらっしゃらなくても、私に任せてくださってよかったんですけどね』
 みひろが呟いた。
 ――小中井の声ね。
『別に、小中井警部を信用していないわけじゃないよ。でも、やはり自分の目で見ないと信じられなくて』
 ――こっちが増見だわ……
『あっという間に、ヤクザ四人を始末したからなぁ』
『想像を越えてましたね。こんな……いたいけな女の子が』
 これはあの時の会話なのだ。芦ノ湖畔、リゾートマンションの前。雨の路上。殺戮の場から小中井が静香を連れ去った時、クルマを運転していたのが増見局長だった。
 そして次のセリフにみひろの表情が変わった。
『とにかく、官房長官も満足でしょう』
 九重が一枚嚙んでいた。静香をさらったのも、その差し金だった。しかも政敵を屠らせるため。治安維持法の復活と治安維持省の設立のため。
『研究所か。私、初めて行くんですけど、遠いんですよね』
「お前、聞いたことあるの、この研究所って」
 みひろは首を横に振った。Vプロジェクトにも勝る最高機密らしい。
 ビートルズの曲が流れたところで、佐賀は再生をとめた。
「へへ、キラー・ガールだってよ。これから心筋梗塞が、政治家に大流行すっかもな」
 冗談めかして言ったことを、佐賀は後悔した。みひろの眉間に憤怒の炎が揺らめいている。うう、剣呑剣呑。みひろがこうなると、佐賀とて怖い。まあ、こいつ自身孤児だから、余計静香に思い入れがあるんだろうけど……
「ま、落ち着こう。な」佐賀は宥めるように言った。「で、どうする? 汚い大人にこれ以上利用させねぇぞって、静香ちゃんを奪還するならお手伝いもやぶさかじゃないんだけど」
 ――奪還?
「そーそー。ただね、それがうまく行っても、その後どうするって問題があるじゃん。金ならいくらでも出せるよ、俺。けど、静香ちゃんを育てるってのはどうよ。かと言って、みひろが育てるっつーのも? みたいな。だから、それをお前と相談したくて呼んだのさ」
 コアラの目つきを悪さMAXにした。
「どーする、静香ちゃん?」

 みひろは一旦、地上に戻った。
 佐賀恭平は、庭園で三輪静香のことを思う彼女の姿を想像した。
 あの子はいま、どこでどうしているのか。
 研究所とやらでモルモットになっているのか……それとももう、暗殺に使われているのか……
 そして自分は、あの子を一体どうしたいのだろう?
 優しい潮風に吹かれながら、みひろは唇を噛んでいるに違いない。あいつは考え事をする時、いつもそうするんだ。
 間もなく、紺碧の海原は残照に赤く染まる。
 海は穏やかで、波もない。
 だが、みひろの心は波立っている。
 佐賀は彼女の決断を待っていた。
 次々と流れ込んでくる、データの快楽に身を委ねながら。

(了)


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