幸せを自分なりに落とし込む

6/1(番外編)

 幸せって何だろう?と最近特に考えているからちょっと自分の考えを書いてみたいと思う。あ、おそらく皆さんが思う「幸せ」「不幸」論みたいなものではないはず。僕自身、思考が捻じ曲がっている&拗らせちゃっているので変な人の変な理論だと思ってほしい。

 まず僕の中である格言?ってほどではないが、こんな言葉がある。「人間は結局偏差値50」というものだ。

以下、個人の意見。

 まず人の見た目から話すと、可愛くても脚が短いとか、イケメンなのに姿勢が悪い、などである。いいところもあるが、悪いところもある、結果として50に落ち着くという持論である。

 次はこれに仕草を加える。可愛くて脚が短い、けれど食べ方めっちゃキレイとか、イケメンで姿勢悪いけど人の話聞く姿勢はいい、などなど。個人的に仕草というのは見た目と内面の間に位置するものだと思っている。というか、内面の隠しきれない「悪」「善」が外に溢れるのが仕草と言うべきなのか。仕草が凄く気になるという人にはこの考えをオススメしたい。

 そして内面をこれらに掛け合わす。そうすると大方の人間は良いところと悪いところのバランスが取れて50になる、というものだ。

 いや、超絶キレイorカッコいい奴らは絶対に良い思いしているはず、偏差値80だ!と考える人の方が多いであろう。僕もこの理論「だけ」ではそう考える。では内面というものに焦点を合わせようと思う。

 内面=性格と捉えられる。あの人優しい!とかあいつはずるい奴であったり、あの方は本当に親切な方だ!あるいは、こいつはクズ、などなど。言い方は様々なのだが、結局のところ「善」「悪」の二元論にしかならないと思っている。だから僕はこれに「生い立ち」と「これから」を内面に含んで考えている。そうすると、この人はかわいいけどチヤホヤされ過ぎて共感性無いんだ、とか思えるようになり、偏差値50の理論で心を保てるようになった。

 しかし、保てるようになったはずなのに何でモヤモヤするんだろう、と最近特に思っている。それは「偏差値」が50だから。それまで僕は「平均50」だと考えていた。しかし、よく考えてみるとそんなはずはなく、明らかに幸せそうな人間もどうみても不幸な人間も存在しているなという違和感を感じていた。だから「平均」ではなく「偏差値」という言葉に当てはめた。平均にすると全人類の平均というニュアンスに感じるのだが、偏差値という言葉に落とし込むと「幸せになろうとしているもの」の平均という感じがしてなんだか軽くなった。模試の結果は模試を受けている人の結果でしかないのと同じように、「幸せな人」の中で幸せなのか不幸なのかを考えるべきなのでは?と思った。

 「幸せ」というものは実態はないし見える筈もない。だから深追いすると危ないんだなと改めて思った。しかも「幸せ」という言葉は不幸になって気づくものでもある、と思っている。「幸せだった」と表現するのも良いかもしれない。でなければ幸せかもしれない今を「不幸」と勘違いする可能性すらあるからだ。だから幸せというのは「幸せだった」なのかも知れない。「人には人の幸せ」ではなく「人には人の幸せの考え方」なんだろう。

 以上が僕の考えです。ありがとうございました。

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