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心技体、正々堂々

こんなニュースを目にしました。
内容を読む度に、この『保護者』と言われる人に一体何だ?という思いがとても強くなりました。

▼武道の指導ではない

ニュースの中でこの保護者は

「暴力ではなく、武道の指導だった」

と言っていると伝えられています。
子供に防具をつけさせて面や胴を何度も足で踏みつることがどうしても武道の指導だとはぼくには思えないのです。

この保護者が行っている事はただの”のぼせ”の行為であって、この保護者と言われる人物は人の親かもしれませんが・・・自分の子供が同じ目にあったらどう思うのかとっても不思議な感覚です。

もし、生徒の挨拶がまずいのだったら、口頭で言うべきではないでしょうか。
すくなくともぼくは武道は人を痛めつけたりするものではない、と教わってきました。

この”保護者”は正々堂々ということを知っている人間なのでしょうか。

▼心技体

ぼくがこの記事の保護者の行動を『武道の指導ではない』と感じているのは『心・技・体』が揃っていないからです。

ぼくは中高生の頃、剣道をしていました。ぼくは剣道の先生に『心・技・体』というものを教わりました。

その『心・技・体』というのは武道において、心と技と体は連動していて、剣道で言えば、心がない技は決まりませんし、体だけ動かしても決まりません、心だけがあっても打突できませんし、技だけうまくなってもはやりダメだ、この3つが揃ってこそ初めて剣道になる、ということと理解しています。

どの武道にもこれは言えるのではないでしょうか。
少なくとも、欺瞞に満ちた暴力を武道とする人は居ないと思います。

この’保護者’がもし、武道をやっていたのだとしたら・・・単に剣道やっていました、柔道やっていました、弓道やっていました、ということのような気がしてなりません。

▼礼儀・礼節はカタチだけじゃない

この記事を読んで次に抱いた違和感は、
「この保護者という人間は礼儀・礼節をはき違えてはいないか」
ということでした。

そもそも、礼儀・礼節というものは、年齢や経験は関係ないとぼくは思っています。
誰に対しても持つもの、それが礼儀であり、礼節であるわけです。

センパイやセンセイに対しての絶対服従や丁寧な言葉を使う、という表面的な事ばかりが礼儀・礼節ではないとぼくは思っています。

これがもし、礼儀・礼節なのだとしたら…センパイやセンセイのいう事は聞かなくてはならないというなんだかわけのわからない世界になってしまいます。

礼儀や礼節は先輩も後輩も―――年齢や経験なんて関係なく目の前にいる相手をどれだけ尊敬できるかっていう心の現れではないでしょうか。
その上で目の上の人を敬ったり、年下の人間をかわいがったりする、そうした中で敬語を使ったり、相応の態度をとったりすることがあるとぼくは考えています。

よく居ます。
敬語は使っているけれどもまったく敬意がなかったり、タメ口なのに気持ちよい挨拶・態度だったり。

これは人による、ということももちろんあるかもしれませんが…だいたいの場合、礼儀・礼節の根本である、『尊敬』があるかないかだと感じています。

武道の試合の前に『礼』をするっていうのは形式だけではないと感じています。
これから始める試合に『正々堂々』戦うという自分の決意と、経験も年齢も関係なく相手への敬意を払い礼をするのであると理解しています。
その角度や視線は『心』があって初めて身体と技が出てくるもので『心技体』が揃っているものは本当に美しいものであります。

▼親の顔が見てみたい

このニュース内の生徒がふざけて挨拶をしたのだとしたら、『心』を教えるのが目上の人間の務めではないでしょうか。
暴力に訴える事は愚の骨頂です。

このニュース内に出てくる顧問の存在もそうですが…
逆らえない相手('保護者')自身が、顧問も生徒も逆らえない事を知っていて、やり返してこないことを良いことにこうした暴挙に出たとしたら・・・それはパワハラどころかただの嫌がらせ、いじめ、場合によっては強要・恐喝といった犯罪になるのではないでしょうか。

やり返してこない相手に攻撃するのは卑怯であり、正々堂々とは武道では言わないと思っています。
そうした’保護者’が挨拶について指導をするというのはちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ません。

これは武道の指導の名を借りた暴力であって、この”保護者”の親の顔が見てみたいもんです。
もし、武道(もどき)をやっていたのだとしたら、師匠の顔も見てみたいです。

生徒を足蹴にするために、育てられたのか。この’保護者’とその親に聞いてみたいものです。


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