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慈しむ心

ぼくに極端に足りないであろうというものの一つに
慈しむ心
があります。

別にものを大事にしないわけではありません。
人に対しておざなりな態度をとるわけではありません。
何かに対して粗末に対応したりするわけではありません。

それでも、ぼくは『慈しむ心』が足りないなぁと思う事があるのです。

▼母にはあった慈しむ心

ぼくの母は他界しておりますが、母には『慈しむ心』があったのだなと感じております。

もちろん、母の友人や知り合いに聞きますとほとんどの場合悪い事はあまり聞こえてはきません。
ただ、みなさん、「武藤さんは優しく、誰に対しても慈悲深い人だった」と異口同音に仰っていただけます。

慈悲深い。
なんとも大仰な感じがしていました。
もちろんぼくは母の事も尊敬しておりますし、母が居たからぼくがいるわけであります。
ただ、反面、母とはよくケンカもしましたし、意見が合わない事も多々ありました。

ですから、皆さんが仰っておられる『慈悲深い』という言葉に当時はピンときておりませんでした。

ある時、ぼくの家の菩提寺の住職さまにこんなお話をしてくださいました。「お母さんは、他人の心の痛みがわかる、相手の痛みに心を寄せられる人だったよ。慈しむ心を持っておられた。」

その時、ぼくの心の中で何かがストンと。
その住職さまのお言葉が腹に落ちたのであります。

母は確かに「慈しむ心」を持っていたと。

▼誰かの痛みをわかろうとする気持ち

母は別に慈善活動をしていたわけでも、多額の寄付をしていたわけでもありません。
ただ、母に関わった人から聞こえてくる『慈悲深い』という言葉。
それが『慈しむ心』と聞いた途端にぼくは得心したのです。

「そうだな、ケンカしていてもぼくの悩みをわかろうとしてくれた」

こう一人でつぶやいたのを今でも覚えています。

母も確かに自分の意見を持っている人でしたし、信念もあったと思います。
そうした中でも色々な人に心を寄せていたことを思い出します。

ひょっとすると・・・人並みだったのかもしれません。
しかし、ぼくにとっては、「慈しむ心」というと、母の行動が思い浮かびます。
ケンカをしていた時―――20代の時にはわかりませんでしたが、今、この年齢なら少しわかります。母が周りの人に接していた、誰の話もよく聞き、心を寄せていたことが。
ケンカをしたぼくにすら、悩みがなんなのか、ぼくの稚拙な行動の裏にある痛みがなんのか分かろうとしてくれたのだな、と今になってありがたいことだと感じています。

▼人の親なら・・・

とはいえ、人の親であれば、自分の子供の心の痛みに寄り添うものかもしれません。
ぼくは未だ人の親になっていないのでわかりませんが…
この母の『慈しむ心』は今は確かに感じております。

ただ・・・。
このぼくに、今のこのぼくに「慈しむ心」があるかと言われると…少しはある、と答えたいところですが…まだまだ足りないのが現状だと感じています。

ぼくは自分の我が強いのか、人の心を無視してしまうのか、痛みが分かりづらいのかはたまた感じないのか…
そういう態度を他人にとってしまう時があります。

もちろん人間ですから、常に、というわけにはいかないでしょうし、『慈しむ心』という部分では一生かけても母の足元にも及ばないような気がしております。

▼今のぼくにできること

ただ、今のぼくにできることはあると思っています。
それは、他人の心の痛みを理解しようとする心を持つことです。

今までのぼくは、他人の心の痛みをわかろうとしなかったように思います。
それが議論を交わしていた人や、お付き合いしてきた彼女、友人、家族、仲間…
自分と意見が違うというのはあたりまえの事であり、それが同じになることはありえないと考えていますが・・・しかし、相手の心も自分の心と違うわけですから、自分も心の痛みを持っていれば他の人も持っているわけです。

その心の痛みをわかろうとさえしなかったのではないか、と最近感じているのです。

ぼくはこの先も、完全に他人の心の痛みが理解できるとは思えません。
しかし人の心の痛みを理解しようとする心は持つことができると感じています。

完璧でなくても。
完全でなくても。

少しでも心の痛みを理解しようとする心を持つことで、『慈しむ心』を持つ母のようになれたらいいな、と考えています。

難しいけれども・・・頑張ります!

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!