自分のせいで自分のおかげ
▼今朝起きて、作業机の前に椅子に座った時に、非常に「しっくり」来た。
今までないくらい、椅子と背中と尻が一体化したような感覚だ。
車のシートでも、バイクのシートもで、自転車のサドル、便座、食堂の椅子、ソファー、作業用の椅子に至るまで…
「あ、この位置だ、この位置。これだよ。これ。あああああ。」
という位置に偶然座れることがある。
今朝がこうであった。
▼ぼくは・・・解明できるかどうかは別にして・・・原因を突き詰めたい癖がある。
だから、今朝の椅子の座りが良かった時の足の位置、尻の位置、椅子の高さ、手の位置、背中と背もたれの当たり具合などなどできる限り確認した。
これはぼくなりに導き出した結論なのだが…「足と足の裏、膝の曲がり具合が重要なのではないか」と考えた。
午後、似たようなポジションについてみたが…午前中ほどの感動は得られなかったが・・・それでも今までよりも座りやすいポジションを見つけたようだ。
▼今回は「椅子の座り」が良い方法を書きたいのではなかった。
この『原因』ということについて書いておこうと思ったのだった。
▼ぼくはいつも「自分のせいで自分のおかげ」だと考えている。
どんな結果にも責任はつきまとい、その結果に自分自身が責任をとらなくてはならない。
▼「責任」と書けばなにやら、「悪い結果に対して、何かを行わなければならない」とか「原因」と聞けばやはり「悪い結果に対しての”原因”」のような言葉のイメージを一時期持っていた。
▼しかし、悪い結果に対してだけ「責任」や「原因」があるわけではないと考えている。
良い結果にしても悪い結果にしても「責任」や「原因」があるのだ。
良い結果、悪い結果という分け方をせずに、単に原因、起因することがあって、それに対する結果があり、責任があるだけなのだ。
▼もちろんぼくも人間だから、「良い結果」になれば当然喜ぶし、「悪い結果」になれば、凹むし、人のせいにしようとする。
しかし、よくよく考えてみると、すべての結果は自分で判断し進んだ結果なのだ。
自分のおかげであり、自分のせいなのだ。
誰にどんな助言をもらおうが、誰に何を言われようと、色々な事情を考えたとしても最終的に判断したのは自分自身なのだ。
自分の行動は他人に影響されることはあっても、他人が直接操作はできない。
▼だからこそ、この判断は経験となり、次の判断の礎になるのだと感じている。
判断を繰り返し、その結果に対して考え、次の行動につなげていく事が大事なのだと考えている。
▼少し話は逸れるが…「洗脳」や「催眠」という言葉もある。
これについてぼくは非常に暗いイメージを持っている。もちろん「催眠」が療養の一つとして用いられていることも承知している。
しかし、これらを悪事に使う輩がいる事も確かなことだ。
なので、「自分が判断している」と感じていても、その実、「判断させられている」ということもある。
「おかしいな」と思ったら、周りの人に相談するのが一番良いと考えている。
▼たとえ、洗脳されたり、催眠で被害を被ったとしても…「自分でやったことでしょ」とか「おかしいと思わなかったのか」と・・・やはり自分の「したこと」になってしまう場合が多い。
▼話が逸れたが・・・
ぼくはこの記事で「自己責任論」の賛否を述べるつもりはない。
しかし、普段の暮らしの中で、「自分のせいで自分のおかげ」と考えていることでいくらか、前向きな気持ちで生きられるのではないかと考えてはいる。
▼「責任」や「原因」というのがどこか悪いイメージを持つ言葉のようにまかり通っているように感じるし、「責任」とは、良い事についも悪い事もついても常に発生するもので…必ず原因があり、その原因を突き止めることで…次の判断がより自分に良い判断になるのではないか、と考えている。
もちろん、どうしようもないことも…どうにもできないことも世の中にはある。
けれども・・・良かった事については自分のおかげとして素直に喜びたいし、悪かったことについては、自分のせいだと受け止めたい。
そして、いずれの結果についても「原因」をはっきりと認識し、次の行動・判断に繋げていきたい。
舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!