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むびゅう

▼幸いなことに、わが日本では保障されていることがある。
それは、どんな意見・思想・信条を持とうが自由なことである。

▼ぼくが考える事と違う事、ぼくと思うことが違う事、ぼくと信じるモノが違う事。世の中にはたくさんある。
それのどれが正しいとは言えないし、どれも間違っているとは言えない。

▼我が国では、どんな意見を発表しようが、どんな思想を持とうが、どんなものを信じても誰に咎められることはない。

▼たとえ、SNSなどで「間違っている」「それは違う」と言われても責められても…他の人から面と向かって「それは違うだろ」「そんなの信じない」と言われても別に捕まることはないし、自由に意見・思想・信条について喋ることができる。
たとえ、それが…人を傷つける事であったとしても…発言しただけで捕まることはない。

▼「無謬」という言葉がある。聖書無謬説などで使われ、意味としては、

「聖書」は無謬である(誤りがない)ことを絶対的要件とする前提。

ということだ。無謬は誤りがない、と考えることができる。

▼この「無謬」というものが…ぼくは危険だと考えている。別に「聖書」が間違っている、ということではない。

▼例えば…「あの弁護士先生が言っていたから」とか「あの医者が言っていたから」とか「あの著名人が言っていたから」「テレビで言っていたから」「本に書いてあったから」と言って…それが真実とは限らない。

▼盲目的に他人が言っている事、書いている事を信じる事は非常に危険だと考えている。

▼偉い人が言ったからと言っても、有名な人が言ったからと言っても…それは「その人」の意見であって、正しいとも間違っているとも言えないのではなかろうか。

▼このコロナ禍の中で…現在、新型コロナウィルスについても、政治的な事柄についても…2か月前とはくらべものにならないほど、注目が集まりやすい。

だからこそ、自分自身で判断することがとても大切なのではないだろうか。

▼現代で言えば…
 ・著名人の発言
 ・SNSなどではやっている事
 ・テレビや新聞、雑誌などではやっている事
 ・仲のいい人の言説
 ・信じている人(モノ)の考え方
 がこの無謬につながると思う。
 
▼別に無謬が悪い、と言っているわけではない。
信じるモノがないよりも信じるモノがあるほうが人として魅力的だ。

▼しかし、こと、生命にかかわることや、暮らしにかかわることは…無謬では非常に危険だと考えている。
とくに今は情報が氾濫している世の中。
テレビや新聞が常に正しいわけではなく、ネットの世界が常に正しいわけではない。
一つの事柄について、様々な意見・考え、肯定・否定を含め、自分で精査し、そして自分の意見を決めべきだとぼくは考えている。

▼その上で…誰が何を言おうが、何を考えようが、何を信じようが…それは自由である、と考えている。

▼もちろん、それらの意見に「好き」や「嫌い」はある。
そうした好き嫌いとは別の判断を、生命にかかわることや、暮らしにかかわることについてはしていこうとぼくは考えている。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!