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酒は悪くない、寺もいい迷惑だ。

ぼくは飲酒運転については殺人未遂と同等だと感じている。
それは、車という「安全」に関わるものを飲酒して操作することは、故意に包丁を振りまわす事と同義だと感じているからだ。

今日、こんなニュースを目にした。

有名人だろうが…そうでなかろうが・・・酔っぱらって運転する、という行為がどうにも信じられないのだ。

▼飲まなきゃいけない?!

実際ぼくが仕事をしている上でも、「飲む」機会はたくさんある。
しかし、車やバイクで行った場合は絶対に飲まない。たとえ、先輩や仕事先の重要人物が居たとしても、「飲まない」。
飲むんだったら乗らない。飲まなきゃいけないのであれば、車やバイクでいかない。

とにかく飲酒運転は殺人行為だと思っているから、しない。

ただ、ぼくは思う事がある。
「飲まなきゃいけない」場所に車やバイクで行く理由はなんなのか。
また、バイクや車で来ている人に飲ませて、運転を止めない、止められない人間関係とはなんのか。

良く聞くことがある。
「飲まないと本音で話せない」
これは事実だと感じる。飲んで、少し、気持ちが開放的になり、普段言わないような事を言ってしまう事がある。
だから、「飲まなくても本音で話せる」という事だけが真実だとも思っていない。

ぼくが感じるのは「酒は関係ないだろ」ということなのだ。
ましてや、酒席で仕事の話をするのはぼくはどうしても馴染めない。
いや、しても構わないが、その酒席で「仕事の事項が決定する」ことに馴染めない。

もちろん、「酒の場で契約が決まる」だったり「良いアイデア」が出る事は否めないし、実際にある話で、経験もしてきた。

しかし、馴染めないのだ。

何故ならば、酒を飲めば・・・飲んだ人間は多かれ少なかれ、気が開放的になる。「運転をしてはならない」状態で出たアイデアや仕事の決定が、本当に有効かどうかが疑問なのだ。
だから馴染めない。まもとかどうかが問題じゃなく、少なからず、判断や機能が非飲酒時と異なる状態で仕事の事を決定するのに馴染めないのだ。

その方が良い仕事ができる、というのであれば、飲んでからやればよいと思うし、そもそも、飲酒運転なんて存在しないのではないかとさえ思ってしまう。

話を元に戻すと・・・「本音」に酒は関係ないと思っている。
酒席で出る人も居れば、そうでない人もいるのだ。いつかも書いたが・・・「勝手に定義をするな」という思いところが大きい。

今回の山口容疑者にしても、「酒」は関係ない。酒を飲む、という行為について、可能なのか不可能なのか選択できる自由はあったはずだ。
飲んだ経緯はわからない。
しかし、飲酒運転を止めることもできない、また、バイクや車で来ている事も言えず「酒を飲まない」という選択ができない酒席というのは・・・人間関係がどうかしているとしか思えない。
自由が奪われていたとでもいうのか。

▼油断、気の緩み

先ほども述べたが―――酒席で仕事の決定をする事に馴染めないことと共通しているが、飲酒運転をした人間は「オレは大丈夫」というわけのわからない思いがあったのではないだろうか。

「酒を飲まないと本音が出ない」
「酒の席で良いアイデアが生まれる」
「酒を飲んで運転しても大丈夫」

上二つと一番下は違うように見えるかもしれない。
お酒が好きならなおさらだろう。ぼくもお酒の席が嫌いなわけじゃないから、その気持ちも良く分かる。

しかし、これらは、すべての人に当てはまるものではないし、むしろ、反対の事を感じている人間も多いのだ。

お酒を飲んで本音が出る事もあっただろう。
お酒の席で良いアイデアが出る事もあっただろう。
お酒を飲んで運転して、大丈夫なこともあっただろう。

全部、たまたま、偶然ではないのか。
もちろん、飲酒運転以外は法に触れるわけでもないし、そういう事もあることは前述の通り承知している。

ただ、これを決めつけ、思いこむ事が多くなると、見失う事も多くなるとぼくは考えている。

これが気の緩みであり、油断につながり、たとえお酒を飲んでいなくても、判断力、判断基準が狂ってくるのだと考えている。

▼寺に行っていた?!

どこかの報道で言っていた事だが、山口容疑者は自分を見つめ直すために週に何度か寺に行っていたということだ。
読経や写経をしていたそうだ。

寺もいい迷惑だ。

寺に行ってるだけで、何か自分が変わるなら苦労することはない。
読経や写経を何のためにやっているのか、山口容疑者は何を思いながら、口から経を発し、書き映していたのだろうか。

そうしていることで「いつか何かがつかめる」とでも思っていたのだろうか。
それとも、行くことをアピールしたいだけだったのか。

報道では寺の実名など出ていないから余計なことは書きたくないが―――それでもこれだけは―――お寺に行ったからと言って、読経・写経したからと言って、自分の力を適正に信じていない人をどうにかすることはできないと感じている。

お寺に行って、何をし、何を得たかが大事ではないのか。
自分を見つめ直したいと思ったことは本当かもしれない。
しかし、飲酒運転をしてしまった事は見つめ直していることにはならないと考える。
なぜならば、飲酒をして問題を起こしたということがわかっていないから、「オレは大丈夫」という慢心のままということではないのだろうか。

「オレは大丈夫」ということすらも見直す事が大事なのではないか。

もちろん、人間だから全てが完璧、というわけにはいかない。
しかし、法に触れることを神仏が告げるとはどうしても思えない。少なくともぼくが知っている神仏はそうではない。

▼酒のせいにするのはどうなの

飲酒運転に限らず・・・「酔っていたから」というのをニュースで耳にすることがある。

酒のせいにするな、とぼくは思う。
お酒には良い効能ももうちろんあるし、酒席で良いこともたくさんある。

だが、万能ではない。
多用しすぎればやはり効果は薄れるし、のまれれば、わけのわからないことになる。

もちろん「無礼講だ」ということでの発言を云々言う気はさらさらない。
そういう人間関係が出来ていれば、言う気もおきない。

ただ、お酒は飲むモノであって、それ以上でもそれ以下でもない。
お酒を飲んだことによる身体に対しての効能は確かにあるかもしれないが、お酒を飲めば何もかも解決する、という考えは持っていない。
良い事があったとしてもそれは結果論であり、まず席を共にする人との人間関係ありきだとぼくは考えている。
でなければ、「〇〇を食べていればガンにならない」という事が定義されているはずだ。
効能はあるけれども、万能ではないはずだ。

山口容疑者の件もそうだと思う。
お酒のせいにしているのではないだろうか。
アルコール依存症という事も言われているようだが、「せい」にしている限り、自分の心は一時は納得するかもしれないが…それは解決にはならないとぼくは考えている。
もちろん、立ち直りたいという気持ちもあったと思う。ただ、その酒席に居た人間のその関係が「自分が気持ちよいだけ」の関係であれば、それは一時の快楽、自分の気持ちを上げるためだけの集まりではないか。

人間だから、気持ち悪いよりも気持ちよい方に行くのは当然だ。
しかし、人間は完璧ではない。だからこそ、耳の痛い話や、飲酒運転など法に触れることを止めてくれる人間関係をきずき、気付いていくことこそが、誰でも自分を見つめ直す、第一歩なのではないかと思っている。

お酒も悪くないし、お寺もいい迷惑だ。
ぼくは今回のニュースを見てそう感じた。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!