見出し画像

【世界史】何故あれほど栄えた古代ギリシアはあっけなくローマに呑み込まれてしまったのか

世界史の教科書を読んでいると、最初に出てくる地域はオリエントや中国だろう。そして次にギリシア諸都市、ポリスの繁栄について出てくる。アテナイの民主政は絶対テストや入試に出てくるだろうし、スパルタは現在のスパルタ教育の語源になってたりして日本でも有名だ。なので古代ギリシアの繁栄について知っている人は多い。

しかしアレクサンドロス大王の時代辺りから、古代ギリシアの諸都市、諸国家は世界史の教科書に全然出てこなくなる。代わって出てくるのは大王の死後、マケドニアを支配した本記事の主人公、アンティゴノス朝マケドニアだ。しかしそれも気がついたらローマに敗れて併合されているし、アテナイやスパルタみたいな古代ギリシアの諸都市、諸国家も知らないうちにローマに呑み込まれている。一体世界史の教科書に出てこない間、何があったのだろうか。今回はそれを詳しく解説しようと思う。

【アンティゴノス朝マケドニアの成立】

まずアンティゴノス朝マケドニアの成立について…といきたいところなのだが、この王国の成立過程、少し面倒なのだ。

アンティゴノス朝マケドニアはセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトと合わせてヘレニズム三国という括りで呼ばれることが多い。その中でもセレウコス朝はセレウコス1世が創始したし、プトレマイオス朝はプトレマイオス1世が創始した。

じゃあアンティゴノス朝マケドニアはアンティゴノス1世が創始したの?と言われることが多いが、実際には彼の孫、アンティゴノス2世ゴナタスが創始した。

実はアンティゴノス1世はディアドコイ戦争(わからない人は前回書いたセレウコス朝についての記事を読んで欲しい)の過程でセレウコス1世などに敗れて戦死しており、その死の少し前にマケドニアではカッサンドロスという人物がアンティパトロス朝マケドニア(カッサンドロスの父、アンティパトロスが名前の由来)を建国していたのだ。

しかしこの王国は長く続かず、最後の王、ソステネスの死後にマケドニアに侵攻してきたケルト人を撃退して、前276年、アンティゴノス2世ゴナタスはようやくアンティゴノス朝マケドニアを建国した。

オレンジがアンティゴノス朝マケドニアの領土

その数年後、隣接するエピロス王ピュロスによって王位を奪われるも

ピュロスの死後、王位を回復しマケドニア王国の地位を盤石なものとする。

その後アンティゴノス朝はギリシアに目を向けた。増大するアンティゴノス朝に懸念を抱いたのはスパルタとアテナイだ。スパルタ王国(勘違いされがちだが、スパルタは共和政ではなく王政である。)の王アレウス1世はアテナイとエーゲ海に権益を持つプトレマイオス朝を誘ってアンティゴノス朝に戦争を仕掛けた。これがクレモニデス戦争だ。

戦争は前267年から前261年にかけて約6年間続いたが、結果はアンティゴノス朝の勝利に終わった。

戦争前
戦争後

敗戦によってプトレマイオス朝はエーゲ海の島々の殆どを失い、アテナイに関しては占領されてしまった。スパルタも弱体化し、これを機にギリシアやエーゲ海においてアンティゴノス朝の覇権が確立した。

更に前229年から前222年にかけてクレオメネス戦争が勃発した。この戦争はペロポネソス半島(ギリシアの下の方の半島のこと。)の南部を支配するスパルタと北部を支配するアカイア同盟(コリントスなどを中心とした都市国家の連合体のこと。)の対立から始まり、アカイア同盟がアンティゴノス朝を呼び寄せたことでマケドニアも参戦した。

結果はアカイア同盟とマケドニアの連合軍の勝利に終わり、スパルタは更に弱体化した。しかしアカイア同盟の影響力も弱まり、マケドニアの影響力が増すことになってしまった。

ここまで読んでくれればわかるが、結構アンティゴノス朝は優秀だった。しかしここから、ギリシアで勢力を増すアンティゴノス朝の前に強敵が現れる。

ピンクがアカイア同盟の領土



【ローマの影】

アンティゴノス朝がギリシアで勢力を広げていた頃、急速に地中海を席巻していた国家があった。
それはローマだ。しかしローマはこの頃カルタゴと争っており、その目は西にしか向いていなかった。
そんなローマが東地中海に目を向けるきっかけになった出来事がイリュリア戦争だ。当時バルカン半島の西部にはイリュリア王国という、イリュリア人の部族の国家があったのだが、その女王テウタがローマの商戦を襲い始めたことにより戦争が発生した。(第一次イリュリア戦争)

イリュリアはここら辺の地域

戦争は前229年から前228年にかけて発生したが、結果はローマの勝利に終わった。
しかしその後イリュリアは何年もかけてローマの友好都市にまで影響力を広げ、これ以上イリュリアの影響が増大すると困るローマはイリュリア討伐を決めた。対するイリュリアも、この頃ローマがカルタゴと第二次ポエニ戦争に突入していたことからローマを倒す絶好のチャンスだと考え、この二国は前219年頃に再び戦争に突入した。(第二次イリュリア戦争)
しかしこれもローマの勝利に終わった。ここまでイリュリアについて長々と書いてきたが、一体マケドニアとなんの関係があるんだと思った人が多いと思う。
イリュリア戦争がもたらした影響は

①ローマの目線が東に向くきっかけとなったこと。
②女王テウタの後にイリュリア王となっていたデメトリウスがマケドニアに亡命したこと。

の二つだ。この頃マケドニアには盛年な新王ピリッポス5世が即位しており、デメトリウスは彼の元に逃れた。そしてこの頃ハンニバル率いるカルタゴはローマ相手に圧倒しており、ローマの敗北の知らせがデメトリウスの元にも届いた。

そしてデメトリウスはこれをピリッポス5世に伝え、ここでローマを倒さなければマケドニアも危ないということ、ギリシアは既にマケドニアに抵抗できる力を失っており、ローマに目を向けるべきだということ、などを伝えた。この頃マケドニアはギリシアのアエトリア同盟と戦争をしていた(同盟市戦争)が、デメトリウスの進言を聞き入れたピリッポス5世はアエトリア同盟と講和し、マケドニアとローマは対決することとなる。

これが第一次マケドニア戦争だ。

マケドニアはアカイア同盟やカルタゴと同盟を結び、対するローマはスパルタやアエトリア同盟、アッタロス朝ペルガモン王国(セレウコス朝から独立していたアナトリアのヘレニズム王国。巨大な図書館と豊かな経済力で有名。)などと同盟を結んだ。

しかしローマとカルタゴは遠いギリシアまで大兵力を送る余裕はなく、戦争はアエトリア同盟vsマケドニア&アカイア同盟 の組み合わせで推移した。

戦争はマケドニア側優勢で進んだ。しかしプトレマイオス朝やロドス島(この頃のロドス島は複数の諸都市により成り立つ独立勢力だった)、などの第三国が講和を持ちかけた。戦時中アエトリア同盟はエーゲ海で海賊行為をしており、特にロドス島などの通商国家はこれを苦々しく思っていたからだ。

こうして前205年頃にまずアエトリア同盟がマケドニアと講和を結び、戦争から離脱した。同年ローマもマケドニアと講和を結び、第一次マケドニア戦争は引き分けで終わった。

今更だがアエトリア同盟は黄色のところ。ローマは紫



【第二次マケドニア戦争】

第一次マケドニア戦争において、ローマはカルタゴとの戦争に黙殺されていたことと、ギリシア諸都市、諸国家の強かな外交戦術に翻弄されたことなどにより力不足が露呈してしまった。

しかしローマは負ければ負けるほど成長する国家だ。ポエニ戦争の時もそうだったが、ローマの真骨頂は分析と実行だ。こんなところでローマは負けるような国ではない。

一方マケドニアのピリッポス5世は更なる勢力拡大のためにセレウコス朝の大王、アンティオコス3世と共謀し、プトレマイオス朝の攻略に動いた。当時のプトレマイオス朝はまだ6歳だったプトレマイオス5世が即位したばかりであり、この幼王の弱みに漬け込んでエーゲ海を我が手にしようとしたのだ。

前回書いた私のnoteと合わせて読んで貰えば合点がいくと思うが、こうしてアンティオコス3世はプトレマイオス朝に侵攻しパレスチナを手に入れた。ピリッポス5世も小アジアにあるプトレマイオス朝の領土を奪った。

このことに懸念を抱いたのはペルガモン王国とロドス島だった。彼らはここでローマの支援を要請する。この時期のローマは第二次ポエニ戦争でカルタゴに勝利したばかりであり、この時点までは東地中海に対するローマの関心は高くはなかった。

しかしローマは要請を聞き入れ、ロドス島、ペルガモン、アエトリア同盟、そしてマケドニアの支配下にあったアテナイなどがローマと同盟と結び、ローマはマケドニアに侵攻を開始する。
これが第二次マケドニア戦争だ。

当初戦争に苦戦したローマだった(第一次マケドニア戦争時、ローマ軍団はギリシアで残虐行為をやらかしておりギリシア諸地域はローマを支持しようとしなかったため)が、前197年にトラキアで発生したキュノスケファライの戦いでマケドニア軍を粉砕し、マケドニアはローマと講和することのなった。このフラミニヌスの和平では、主にエーゲ海でマケドニアが保持していた権益の大部分をローマに引き渡すこと、アテナイを完全に独立させることなどが決まり、マケドニアの勢力は著しく後退した。

第二次マケドニア戦争後のバルカン半島

またこの時期血気盛んなスパルタ王ナビスがローマやアカイア同盟などの連合軍と勢力回復のためナビス戦争を起こしていたが、2度の戦争を経てナビスは劣勢となり、ナビスはアエトリア同盟に助けを求める。しかしナビスを助けるべく派遣されたアレクサメヌスという指揮官はナビスを暗殺してしまい、アエトリア軍はスパルタを略奪。これによりスパルタは完全に敗北し、これ以後ギリシア史にスパルタの名前が轟くことはなかった。
代わってアカイア同盟はスパルタを同盟に加盟させ、ペロポネソス半島はアカイア同盟が支配した。

スパルタ…

一方ギリシアがごたついている中、セレウコス朝の大王アンティオコス3世は遂にトラキアに上陸。次はギリシアに侵攻することが目に見えていた。

セレウコス朝の進撃にギリシア諸都市は狼狽し、アエトリア同盟はそれまでの親ローマ路線を変更しセレウコス朝に接近した。こうしてアエトリア同盟とセレウコス朝は、東地中海に急速に勢力を広げようとしていたローマと戦争を開始する。

これも前回のnoteを読んで貰えればわかると思うが、セレウコス朝はローマの前に敗北。前188年のアパメイアの和約で大幅に勢力が後退することが決まった。まだアエトリア同盟も個別にローマと和を結び、ローマの軍門に下った。

アエトリア同盟とセレウコス朝を破ったローマ

この頃にはかつてローマと鎬を削ったマケドニア王ピリッポス5世は完全にローマと争うことを諦め親ローマ派となっており、ローマ•シリア戦争ではローマを支援するほどになっていた。こうしてローマによる東地中海の覇権が確立した。

【第三次マケドニア戦争】

前179年にピリッポスが死去すると、後継のマケドニア国王としてペルセウスが即位した。ペルセウスはピリッポス時代までの親ローマ路線を取りやめ、軍事力の増強を図ったが、この動きはギリシアや周辺国家に脅威を与えた。既に東地中海の覇権を確立していたローマはマケドニアの勢力が復活し、ギリシアへ影響力が浸透するのをなんとしてでも阻止しなければならなかった。そして毎度お馴染みのペルガモン王国からの支援要請を受けて、前171年にマケドニアに対して宣戦布告し、バルカン半島への侵攻を開始した。

当初ローマはマケドニア相手に苦戦を重ね、マケドニア王ペルセウスはセレウコス朝やペルガモン王国などに対し自身に味方するよう要請した。
しかしアカイア同盟以外の国家はマケドニアの要請をスルーした。この時点でマケドニアはローマに敗れることが決まっていた。

前168年にピュドナの戦いが勃発。この戦いの直前に月食が起こっており、マケドニア軍内では月食を王国の終焉を告げる前触れという噂が広がり、士気は低下していた。ローマはこの戦いでマケドニア軍を完膚なきまでに叩きのめし、ペルセウスはマケドニア王国の首都ペラまで逃走した。
ペラについたペルセウスだったが、住民はペルセウスを入城させずに追い払った。その後ペルセウスはローマに降伏し、ローマ領アルバで余生を送った。

こうしてアンティゴノス朝マケドニアは断絶し、マケドニア王国は4つの自治領へと解体された。勿論その自治領はローマが支配した。

ローマに敗れたアンティゴノス朝

また、翌年にはマケドニアに隣接するエピロス王国もローマに呑み込まれた。そしてマケドニアに味方していたアカイア同盟も、同盟の指導者層からローマに人質を差し出すことを求められた。ローマへと連行された者の中には後にローマの歴史を書くポリュビオスもいた。


【最後の悪足掻き】 

それから約20年後の前149年、アンティゴノス朝最後の王ペルセウスの子ピリップスと称したアンドリスコス(勿論、本物のアンティゴノス王家ではない僭主)がマケドニア王を名乗り、ローマからの自立を宣言した。開戦直後は幾つかの成功を収めたが、前148年に行われたピュドナの戦い(第三次マケドニア戦争のピュドナの戦いと同じ場所)でアンドリスコス率いるマケドニア軍を撃破し、アンドリスコスはローマ軍に捕えられた。

そして前146年、最後に残ったアカイア同盟をローマはコリントスの戦いで破り、アカイア同盟の中でも最も力のあった都市国家コリントスを徹底的に略奪。コリントスは灰燼に帰した。また同年、ローマで長年のライバルであったカルタゴを滅亡させており、この前146年はローマの地中海の覇権が完成した年であると共に、ギリシアの古代都市国家時代の終焉の年と言うことができる。

なお、ロドス島は少し前の前164年にローマ共和国と平和条約を結び、以後ローマの貴族たちのための学校としての役割を担うことになる。両者の関係は、当初はローマの重要な同盟国として様々な特権が認められていたが、のちにローマ側によりそれらは剥奪されていき、カエサル死後の戦乱の最中にはカシウスによる侵略を受け都市は略奪された。

そしてアテナイもローマの支配下に収まり、こうして数々の国家が覇を争った地中海はローマの内海となった。

古代ギリシアの時代は終わってしまった



【まとめ】

ここまで長々と解説してきたが、どうだっただろうか。この辺の歴史は地味だしわかりづらいし、殆どの人はよくわからないまま終わると思う。

しかしその地味な地域にも目まぐるしく動き回った諸都市、諸国家があり、その数だけ歴史がある。私はそれを伝えたかった。

なお、ローマの属州となったマケドニアとアカエア(ラテン語だとアカイアではなくアカエアとなる)は、以前ほどではないものの繁栄を続けた。

マケドニアは農業、商業、林業、鉱業などでローマに多くの富をもたらし、アカエアは学問の都市として再び復興を果たした。現在でも古代ギリシアの文化は時空を超えて多くの人々を魅了している。



最後まで私の駄文を読んで頂き、ありがとうございました!!!画像はOllie ByeというYouTubeチャンネルより引用しました!このチャンネルは沢山の素晴らしい動画を投稿しているので、こんな記事よりもそっちをチェックして欲しいです。

https://youtu.be/DnIqNhpbnwk?si=e0nQiF9YGOzjYTZW
↑この動画です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?