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【音食紀行仙台公演】古代ギリシアの食文化紹介 ―古代のスパルタから『うたえ!エーリンナ』まで―

 本稿は2018年7月16日(月)に行われた、音食紀行仙台公演「魅惑の古代ギリシア」(https://eventon.jp/13692/)でのトーク原稿に手を入れたものです。

主催:音食紀行(代表 遠藤雅司)http://onshokukiko.com/wpd1/
日時:2018年7月16日(月) 12:30〜15:00
会場:レンタルキッチン「RAKUGAKITCHEN」 宮城県仙台市青葉区国分町3-3-30 仙台協立第8ビル 6階
トーク:増井洋介「古代ギリシアの食文化紹介 ―古代のスパルタから『うたえ!エーリンナ』まで―」
    遠藤彩瑛「食を彩る古代美術 ―ギリシア・ヘレニズム・ローマ―」

はじめに

 食文化の話の前に、まずは地理的な説明から始めましょう。ヨーロッパ、オリエント世界の西端、そして北アフリカといった地域に囲まれるようにして地中海という海が存在します【図1】。この海を舞台に、いくつもの国々が生まれ、人々が往来し、様々な文化や社会が生まれました。古代ギリシア人の社会は、ヨーロッパの南東部に位置するバルカン半島の南端と、地中海の東部(エーゲ海)に浮かぶ島々を中心として成立したのです【図2】。

【図1】地中海
図版出典: Wikimedia Commons "Mediterranean Sea 16.61811E 38.99124N"

【図2】古代ギリシア世界
図版出典: 松本宣郎・前沢伸行・河原温(共編)『文献解説 ヨーロッパの成立と発展』南窓社 2007年184頁

 古代ギリシア人とその社会を生み出したこれらの地域は地中海性気候に属し、日ざしが強く乾燥した夏と、一定の降雨量のある冬に分かれます。降雨量は年間500ミリ程度(仙台市の年降雨量は約1200ミリ)で、土壌もやせているものの、乾燥に強い植物が森林を形成しています。加えて、農業に適した平野が少なく、山岳地帯が多いという特徴もあります。そのせいで通行可能な陸路が少なく、人々の交流も限られていましたが、もし移動をする場合は海路が重要となりました。
 こうした地理的条件を背景にして、今から2800年ほど前に、ポリスという中心都市と郊外領域からなるギリシア人の居住地にして共同体があらわれました。ギリシア人はエーゲ海周辺のみならず、黒海の沿岸や、シチリア島や、西部地中海や北アフリカ沿岸に活動範囲を広げることとなります。ポリスは紀元前8世紀ごろからローマの時代にかけて、創設と消滅を繰り返しつつ、およそ1500も造られました ¹⁾。本稿で述べるスパルタもそのポリスのひとつです。
 さて、そのスパルタの最盛期の領域は約8400平方キロメートル、日本の兵庫県と同じくらいの大きさで、ギリシア本土では最大のポリスでした ²⁾。スパルタはペロポネソス半島の山々に囲まれた、広い盆地のなかに立地していまして、耕作は楽ではなかったものの、天然の要害を生かした国造りを可能としました【図3】。その山々の中で有名なのがタユゲトス山、兵隊にはなれないと判断された赤児が捨てられたと伝わる山です【図4】³⁾。スパルタの地理で山以外に特筆すべきなのがペロポネソス半島の中部から南側の海へと注ぐエウロタス川です【図5】。この川の長さは82キロメートルで、宮城県の鳴瀬川と同じくらいの長さを持ちます。こうした環境で、スパルタ人は動物や、野菜や、穀物を得て、それらを毎日料理して生きていました。

【図3】ペロポネソス半島
図版出典: 周藤芳幸『世界歴史の旅 ギリシア』山川出版社 2003年 110頁

【図4】スパルタの遺跡と、現代の都市スパルティ、そしてタユゲトス山
図版出典: Wikimedia Commons "Sparti in-river-Eurotas-valley flanked-by-Taygetos-mountains"

【図5】エウロタス川
図版出典: Wikimedia Commons "Eurotas"

 スパルタの話に加えて、本稿ではもう一つ、古代ギリシアに関わる最近の漫画作品の中に見られる食べ物描写について、歴史学の視点で詳しく見ていこうと思います。今回取り上げるのは、2018年春に星海社より出版された『うたえ!エーリンナ』という作品です。この漫画―物語の内容は第3節で説明します―の舞台となったのは小アジア近くのエーゲ海に浮かぶレスボス島。古代の小説『ダフニスとクロエ』の舞台でもあり、どこか牧歌的なイメージをお持ちの読者の方もいらっしゃることでしょう。レスボス島の大きさは1600平方キロメートルほどで、香川県より少し小さいくらいです。この島の中に5つから6つのポリスが存在していました【図6】⁴⁾。そのなかのひとつ、ミュティレネというポリスの領域は450~500平方キロメートルほどで、宮城県石巻市くらいの大きさです【図7】。漫画内で明言はされていませんが、ミュティレネは女流詩人サッフォーが住んだ町です。主人公のエーリンナはそのサッフォーのもとで音楽を学ぶという設定ですので、漫画の舞台はレスボス島の一都市ミュティレネ、その郊外領域と見ていいでしょう。

【図6】レスボス島
図版出典: 髙畠純夫『ペロポネソス戦争』東洋大学出版会 2015年 119頁

【図7】現代のミュティレネ(現代ギリシャ語: ミティリニ)市街地
図版出典: Wikimedia Commons "Mytilene 2010-04-03"

第1節 スパルタの食文化

 スパルタの料理ですが、レシピという形では残っていません。こんな食材を使っていて、それを焼いた、煮た、というのが詩や喜劇のような文学作品の一部に少しだけ残っている程度です。そうした制約はありますが、その分、想像力を働かせ、現代人が食べて美味しい形にアレンジすることを我々に許してくれます。例えば遠藤雅司さんの御著書『歴メシ』にも載っております、「メラス・ゾモス ⁵⁾」というスープがその一つです。この料理は古代世界の人々にとってはウケが悪かったようで、ローマの時代の伝記作家プルタルコスはこのような話を伝えています。

「スパルタ人のところでは料理のうち黒いシチューが最も珍重される。そこで、年輩の者たちは肉の小片などは求めず、それは青年に譲って、自分たちはこのシチューを注がせて食べる。人々の言うところでは、あるポントスの王がそのシチューのためにラコニアの料理人を買い入れた。やがて味わってみたが、うんざりさせられるものであった。そこで料理人がいった。「王様、このシチューはエウロタス川で沐浴してから食べるべきものなのです」(プルタルコス『リュクルゴス伝』12章)

製法はよく分かりませんが、プルタルコスは『モラリア』という随筆集のなかで、ラコニア人は料理人に酢と塩、あと食肉解体で得られた部位のみを料理に使うように命じたと言っています ⁶⁾。必要最小限の食材しか料理に使えなかったということなのでしょう。
 プルタルコスの著作からみて取れるスパルタの食文化は質素、というよりも忍耐を食べる者たちに強いる側面があったように思えますが、次は、当のスパルタ人が書き残した食文化に関わる文章を取り上げてみます。紀元前7世紀のスパルタの詩人、アルクマンの作品にこのようなものがあります。

「トリダキスカイとクリバナを」 (アルクマン 断片97)

これだけだと何のことかわかりませんが、アルクマンが死んで何百年も経ってから、彼の詩を論評し、あるいは解説をつける人がいたおかげで、何を意味しているか現代の我々にも教えてくれます。それによるとトリダキスカイというのはケシで風味をつけたパン、クリバナというのは乳房の形をパンだそうです ⁷⁾。アルクマンの詩および彼の注釈を引用という形で残してくれたのが、アテナイオスの『食卓の賢人たち』です。これはいまから1800年ほど前の紀元後3世紀に書かれた、ちょっと変わった作品です。内容ですけれども、幾人かが集まったある日の宴会で、「この料理はある文学作品ではこのように引用されている、別の文学作品ではこうだ、関連してこの食材はどうだ」という料理に関わる薀蓄がただひたすら延々と続いていくというものです。海原雄山や山岡士郎が15巻に渡ってただひたすらしゃべり続ける『美味しんぼ』のようなもの、と言えばイメージしやすくなるでしょうか。いずれにせよ、現代に生きるわたくしたちはこのヘンな本を使って、古代ギリシア人が何を食べていたか、加えてアルクマンのような古い時代の作品をのぞき見ることができるのです。
 こうしたパンのほか、アルクマンはぶどう風味の豆のおかゆや、ひきわり小麦のおかゆも食べていたのでしょう(断片96)。アルクマンの好物、エンドウ豆のスープというのも伝わっています(断片17)。このように、アルクマンの詩から見出される古い時代のスパルタの食文化は、プルタルコスの描写と違い、食べる側に節制や忍耐を求めるものではなく、極めて素朴なものでした。
 アルクマンの詩には麦で作った料理が幾つか出てくるのですが、古代ギリシアの主要な作物はこのほかにオリーブやブドウやイチジクが挙げられます。乾燥した土地の多かったギリシアでは、これらは麦より良く育ちました。スパルタのイチジクについて喜劇作家アリストファネスは『農夫』という喜劇において「俺は無花果を植えつけるが、ラコニアのだけはごめんだ。小粒でいけねえ」と役者に喋らせています ⁸⁾。ただ、この発言は額面通り受け取らなくてもいいかもしれません。というのも、第一にあくまで喜劇のセリフであることが挙げられます。つまり、誇張を含んでいる可能性があるのです。第二に、アリストファネスの記述とは反対に、逸名作家の農業書のように、水を十分与えさえすればラコニア種は最も有用であるとする見方もあったからです ⁹⁾。他方で、当のスパルタではイチジクのディオニュソスなる神様も祀られていたらしく ¹⁰⁾、イチジクはスパルタ人にとって単なる食べ物にとどまらず、場合によっては祭祀とも結びつきうる、大切な食料の一つだったと推測できます。
 続いてはお肉の話です。スパルタ人は鳥、牛、山羊、羊、兎といった動物を食べていたようですが、とりわけ鳥は我々に馴染みのないものを食べていました。例えば、ジュズカケバト、ガチョウ、コキジバト、ツグミ、クロウタドリ、サヨナキドリです ¹¹⁾。ハトやガチョウは、スパルタのみならず古代世界では広く食べられていた鳥でした。ちなみにツグミは日本では獲ってはいけない鳥として、禁鳥指定をされています。
 魚介類に関しては情報が少ないのですが、素潜りができる人もスパルタにはいたようで ¹²⁾、どんな種類かは分かりませんけれど、魚も食べていたという記述があります。その一方でウニをうまく食べることができず、悪戦苦闘した様子を伝える逸話も残っています ¹³⁾。また、食べたかどうかはわかりませんが、オルタゴリスコスという、マンボウに同定される魚もスパルタ人は知っていたようです ¹⁴⁾。実は古代ギリシア語で(加えて、ラテン語や古英語 ¹⁵⁾でも)マンボウを指す言葉はどれなのか分かっていません。ダーシー・トムソンという古典学者が書いた、ギリシア語の魚の用語集(Thompson, D.W., A Glossary of Greek Fishes, Oxford, 1947.)に採録されている魚を一通り確認してみたのですが、確実にマンボウの特徴と一致する魚はいませんでした。けれども、マンボウは熱帯や温帯の海のあちこちに棲息していますし、水面に体を浮かべることもありますから ¹⁶⁾、言葉として残っていなくても、見る機会は古代人たちにはあったはずです。また、エウロタス川のほとりで暮らしていたスパルタ人は、川に棲む魚など、ある程度は魚について知っていたはずです。エウロタス川にはアロサというニシン科の魚、ボラ、ウナギ、コイ科の魚などが生息しています。このような魚を適宜焼いたり、干物にしたりなどして食べていたと想像してもいいでしょう ¹⁷⁾。こうした肉類・魚介類のほか、スパルタ人は豆類や生野菜 ¹⁸⁾なども食べていました。
 そろそろデザートの話をしましょう。古代ギリシアでは広く蜂蜜風味のパンケーキのようなお菓子が食べられていましたが、スパルタにもひきわりオオムギをオリーブオイルで丸め、葉っぱで丸めたエパイクロンというお菓子がありました ¹⁹⁾。製法は分かりませんが、遠藤雅司さんがメラス・ゾモスと同様に、いずれ再現して下さるような気がします。ちなみに、徳島県美馬市には麦だんごという、大麦を粉にして作った団子を葉っぱでくるんだお菓子があるそうです。食感はエパイクロンとは違うでしょうけれど、大麦を使って、葉っぱで包んだお菓子を作るという発想が共通している点で興味深いものですし、いずれ食べに行ってみたいものです。
 ざっと紹介いたしましたが、いかがでしたでしょうか。現代の我々と同じように、スパルタ人も毎日毎日何かを食べて、日々生きていたのです。

第2節 シュンポシオン

 ここでは食事そのものではなく、食事をとる場所についてお話しいたします。
 古代ギリシア人の男性には、屋内の部屋で複数の参加者とともに食事をとりつつ、政治や文化を論じる習慣がありました。それがシュンポシオンです。これは「一緒にお酒を飲む」という意味の言葉です。
 シュンポシオンの様子ですが、哲学者プラトンの『饗宴』という作品から推測できます。参加者が寝椅子に横になり、食事をし、その食事が終わると神様にお酒を捧げ、談論を楽しむというものです ²⁰⁾。また、紀元前5世紀ごろの南イタリアで描かれた、シュンポシオンの様子を描いた壁画【図8】は、古代の酒宴がどんな雰囲気だったかを現代の我々に教えてくれます。寝椅子の上に2人ほどの男性が横になり、何やら話し合っている人や、杯に残ったお酒の雫を的に向かって投げる遊びをしている人が描かれています。

【図8】
図版出典: Wikimedia Commons "Symposiumnorthwall"

 このような共同食事を行なう部屋は、「アンドロン」とよばれていました。ローマの建築家ウィトルウィウスによるとこの部屋は男性のみの饗宴が行われる場所で、女性は近づかないといいます ²¹⁾。現代風に言えば男性限定のダイニングルーム兼応接室のようなものでしょうか。ちなみに、このアンドロンと推測される部屋は、古代の比較的大きめの家屋の遺構に広く見られます。普遍的とは言わないまでも、古代ギリシア社会の家屋を特徴づけるものです ²²⁾。
 シュンポシオンは、基本的に男性のみしか参加できないものでした。ただ、その空間に女性が完全に入ることができなかったわけではなく、哲学者クセノフォンが書いた『饗宴』では、笛を吹く女性や、竪琴を弾く少年、若い男女の踊り手たちが列席者を楽しませている様子がうかがえます。また、古代の壺に描かれた絵にも笛吹の女性や【図9】、若い遊女といった人々の姿が見受けられます【図10】。他方で、哲学者のヒッパルキアのように、女性が談義に交じることもありましたが、それは珍しいことだったはずです ²³⁾。

【図9】
図版出典: Wikimedia Commons "Symposium scene Nicias Painter MAN"

【図10】
図版出典: Wikimedia Commons "Symposium BM E68"

 ところで、スパルタにはシュンポシオンに加え、シュッシティアと呼ばれるどちらかというと、国家の統制に基づく公的な共同食事もありました。これはシュンポシオンと同じく複数人で食事を共にするというのは共通しているのですが、軍隊の共同食事的な性格を持つものでした ²⁴⁾。このほかにも、外国からの客人がきた時、宗教的なお祝いの時などにもスパルタ社会独自の共同食事が催されました。
 このように、古代ギリシアの共同食事というのは、儀礼的で、時に公的な共同体を形成する役目を持つ、ギリシア人の社会に特徴的な要素の一つであると考えられます。

第3節 『うたえ!エーリンナ』における食べ物・食文化描写

 2018年春『うたえ!エーリンナ』という漫画が出版されました。作者は古代の竪琴奏者で、俳優の佐藤二葉さん。この作品の舞台は紀元前6世紀のレスボス島、詩人サッポー先生の女学校です。主人公のエーリンナはサッポー先生に弟子入りし、歌うために必要なことを少しずつ学び、親友バウキスや同世代の友達・ライバルを得て少しずつ成長していきます。練習を重ね、伸び代があると認められたエーリンナは、大勢の人が集まる競技祭の合唱競技にてソロパートを歌い、仲間たちとともに第一等を得るまでになりました。そして最後に、自分の歌う理由や歌いたいものを見出すに至る、という成長物語です。本作の特徴ですが、サッフォーの詩や、古代ギリシア語の文献、それらを研究した書籍を何冊も踏まえて描いていることが挙げられます。例えば、バウキス、アッティス、アリグノータといった登場人物たちはサッフォーの詩、そしてエーリンナのモデルになった同名の詩人の作品の中に見出される人々です。さらに、細部の描写や設定も、紀元前6世紀の古代ギリシアの社会や文化を踏まえた上で再現しており、古代ギリシア史を勉強した者からしてみると読みどころや解説すべき点が多い作品です。

 本作から古代の食文化にかかわりそうなところをいくつか抜き出してみますと、まずイチジクがあげられます。書籍版で申し上げると24ページ、「名産品」のお話において、バウキスとアッティスがイチジクについて「イチジクはロドス島のが最高よ」「私はプリュギアのものが最上だって聞いたわ」と会話するシーンがあります。

 佐藤二葉さんがこのやりとりを描くにあたって参考にしたと思われる場面が、アテナイオスにあります。それはアッティカ地方やフリュギア地方、そしてロドスのイチジクについて過去の文筆家の文章を引き合いに出しつつも、ローマのものが最高だと出席者が意見を述べるという場面です ²⁵⁾。イチジクはギリシアのみならず、地中海世界で広く育てられており、(筆者であるわたくしは食べ比べたことはありませんけれども)地方ごとに味が違ったはずです。この作物はポリス間の交流の中で、特産物として扱われる品種もあったでしょうし、各ポリスの自慢とも結びついたのでしょう。
 イチジクですが、もう一点重要な要素が古代世界にはありました。それは、もし戦争が起こった場合、守るべき食料・食料源になりうることです。それが端的に表れているのが紀元前4世紀のアテナイにおける、石に彫られた少年兵が守るべき誓いの文章です。ちなみに、古代史研究ではこうした石や金属に刻まれた文章を「碑文」と呼びます。その碑文には、私たちは恥ずかしい振る舞いはしません、仲間を見捨てたりしませんといった誓いの言葉が並んでいるのですが、この碑文の末尾には「国境」や、「大麦、小麦」といった穀物に加え、「イチジクの樹」を守るという文言があります ²⁶⁾。土地が痩せているギリシアにおいて、一定量の実をつけてくるイチジクという食料がいかに大事なもので、穀物と並ぶ、いわば主食であったことも教えてくれる碑文ではないでしょうか。バウキスたちがイチジクについて自信を持って語るのは、以上のような古代世界独特の背景があってのことと思います。
 続いて、書籍版の47ページですが、競技祭のソロを選抜する試験の前にエーリンナが「のどをつよくするにはどうしたらいいのかな」と悩むシーンがあります。先輩のアリグノータは「正しい呼吸かしら、蜂蜜ものどにいいのよ」とアドバイスをするのですが、まじめに受け取ったエーリンナは蜂蜜を大量に食べてしまいます(48ページ)。

 ところでまず、この時代に蜂蜜はあったのかというと、ありました。だいたい紀元前1200年ごろまでにはギリシアでも養蜂が行われていたようでして ²⁷⁾、ホメロスの叙事詩にも、巣を守る蜂のように頑強な敵だと登場人物に感嘆の声を挙げさせている一節があります ²⁸⁾。間接的にではありますが、蜂の巣を狙う人間がいたことを詩という形で我々に教えてくれています。確たる証拠ではありませんがアテナイの政治家のソロンは、もし養蜂をする場合には、ご近所さんからある程度距離を取るようにと法律で定めたようです ²⁹⁾。古代の養蜂の仕方についてはローマの詩人ウェルギリウスが、どういう場所に巣箱を設置すればいいか、蜜蜂はどういう性格を持った生物なのかなど、『農耕詩』という作品の中に書き残しています ³⁰⁾ 。それから、蜂蜜は食べ物としてだけでなく、薬としても役立ちました。古代の医学者ヒポクラテスの著作を読むと、蜂蜜で作った料理や、のど飴のようなものを患者に与えたという記述があります ³¹⁾。アリグノータは蜂蜜のこうした効能を知っていたかは分かりませんが、サッフォーたちが生きた紀元前6世紀には蜂蜜が生産・消費されていたことは指摘しておきましょう。
 最後に、エーリンナのライバルであるリュコス少年が自宅に戻った時の場面を考えてみましょう(書籍版104ページ)。1コマ目でリュコスの父が「いいところに来たな」とリュコスを客人に紹介しています。客人は「花のようなご子息だ、歌の才能があると聞くが、どんな歌を歌うのかね?」とリュコスに聞き、リュコスもそれに答えようとするのですが、リュコスの父はそれを遮って「いやいや、歌はそろそろやめさせて家業のための教育に力をいれますよ」と言い放ちます。リュコスは音楽を続けるためにも、今度の競技祭で絶対に優勝してやる!と決意し、竪琴を握りしめるところでこの場面は終わります。

 この場面の重要なところは2箇所あります。お客人と、リュコスの父の家業です。まずお客人ですが、3コマ目をご覧ください。寝転がって杯を手にしています。加えて、リュコスと父の腰の高さから読み取れますが、このお客人は、床の上に横になっているのではなく、何かの上に乗って横になっています。古代ギリシア世界において杯を持ちこのような姿勢を取るのは、第2節で御説明いたしましたシュンポシオンの席で「寝椅子」の上に横になる時です。この場面は、第2節でご説明いたしましたシュンポシオンの最中であることを表現しているのです。
 お客人の相手をするリュコスの父ですが、名前も家系も出自も、どんな職業かも漫画からは分かりません。ただ、1コマ目にみられるように、確認出来る限りひとりからふたりの家内奴隷がいること、加えて自分の息子を詩人アルカイオスに預けられる、また家業のための別の教育をする予定があるという、一定の資産とコネクションがあったことが窺えます。リュコスの父と共に飲んでいるお客人も、同じような地位にある人間でしょう。
 『うたえ!エーリンナ』の舞台がミュティレネであることは始めの方で述べましたが、ここからはミュティレネの紀元前6世紀前半の状況を古典文献や遺物を踏まえて、リュコスの父について推測してみましょう。
 紀元前7世紀末までのミュティレネには支配者層がコロコロと入れ替わる、政治的に不安定な時期があったようです ³²⁾。この時期、若き日のアルカイオスも自分の兄弟や仲間たちと政治的な闘争に加わっていましたが、闘争の中で彼はエジプトへの亡命を余儀なくされ ³³⁾、他方で有力家門の息女だったサッフォーもシチリアへ逃れています ³⁴⁾。何年かしてアルカイオスは国に戻ることを許されますが、闘争に携わることは無く余生を過ごしたようですし、サッフォーも女性だけのゆるやかな共同体のもと、詩作に励みました。
 このような内政の混乱の中で見て取れるのは、ミュティレネと外国の結びつきです。例えば、レスボス島の隣のリュディア王国は、亡命中のアルカイオスと金銭的な接点を持っていたようですし ³⁵⁾、その一方で、ミュティレネの支配者層もリュディアとのコネを有していました ³⁶⁾。また、サッフォーの共同体にはリュディアからやってきた少女もいました ³⁷⁾。アリグノータのモデルとなった同名の人物がそれです。他方で紀元前607年ごろ、ミュティレネとアテナイの間に、ダーダネルス海峡近くの土地を巡って紛争が勃発したこともありましたが、この紛争を調停したのはコリントスというポリスの支配者でした ³⁸⁾。さらに、サッフォーやアルカイオスのように遠く海外に逃れた者のなかには、傭兵として異国の王のもとで働く者もいました ³⁹⁾。このように、ミュティレネの有力者層は、金銭であったり、契約であったり、様々な形で外国との結びつきを得ました。
 また、確実な伝承ではないのですが、ミュティレネが紀元前7世紀から6世紀前半において南ロシアのタマン半島やエーゲ海北部に植民都市を建設したことも指摘しておきましょう ⁴⁰⁾ 。黒海沿岸やエーゲ海北部は、古代世界においては肥沃な土地と地下資源を産出する場所でした。仮にこれらの地域に植民市があったのなら、母市ミュティレネへと様々な形で富をもたらすことを可能としたでしょう。
 あと、『うたえ!エーリンナ』の時代からは少し後の話になるのですが、紀元前6世紀の中ごろには、エジプトにおいて東地中海の他のポリスと一緒に共同の聖域の建立や商取引所の監督官を選定するといった、比較的大規模な経済活動もありました ⁴¹⁾。加えて、紀元前6世紀のものと思われるミュティレネ産の壺が黒海沿岸、エーゲ海北部、アテナイ、シチリア島、エジプトから見つかっています ⁴²⁾。
 まとめましょう。『うたえ!エーリンナ』で描かれたリュコス少年の父や一族(ひょっとしたら、お客人もそうなのかもしれません)というのは、こうした政治闘争やアテナイとの領土紛争の時代を経て、父もしくは一門の者の才覚で台頭してなにがしかの家業を得たか、もともと有力者ではあったもののアルカイオスとは異なり家業や家産を継承できた一族と推測することができます。加えて、紀元前6世紀前半はミュティレネが海外との結びつきを強めつつあった時代です。海外からやってきた資本や物資を生かして経済活動に勤しんでいたと考えるのは決して不自然なことではないでしょう。こうした状況はまた、バウキスの言う「ロドス島のイチジク」や、アッティスが推す「プリュギア産のイチジク」のミュティレネでの入手を容易にしたかもしれません。
 と、いったところで、スパルタ、シュンポシオン、そして『うたえ!エーリンナ』についてお話いたしました。雑駁ですが、以上です。

(1) Hansen, M.H., Polis: An Introduction to the Ancient Greek City-State, Oxford, 2006, pp. 18, 31-32.
(2) Cartledge, P., Spatra and Lakonia: A Regional History 1300-362 BC, 2nd. ed., London & New York, 2002, p. 6; Hansen, M.H. & Nielsen, T.H. (eds.), An Inventory of Archaic and Classical Poleis, Oxford, 2004, p. 72, 589.
(3) プルタルコス『リュクルゴス伝』16章
(4) レスボス島の歴史は古く、紀元前2千年紀のヒッタイトの文書にもLazpa島としてその名を見いだすことができます。Lazpa=レスボスを最初に唱えたのはフォラーという20世紀初頭の研究者ですが、この読みは現在概ね受け入れられているようです(Forrer, E., “Vorhomerische Griechen in den Keilschrifttexten von Boghazköi,” Mitteilungen der deutschen Orient-Gesellschaft, 63, 1924, S. 14-15; Singer, I., “Purple-Dyers in Lazpa,” in: Collins, B.J., Bachvarova, M. & Rutherford, I. (eds.), Anatolian Interfaces: Hittites, Greeks and Their Neighbours, Oxford, 2008, p. 33, n. 5.)。一方、ギリシア語史料ではホメロスの叙事詩『イリアス』にも、英雄アキレウスが占拠した島として詠われています(9歌121〜122、128〜130節)。
 レスボス島にやってきたギリシア人は、アンティッサ、アリスバ、エレソス、メテュムナ、ミュティレネ、ピュッラという6つのポリスを作り、近隣のテネドス島や小アジア沿岸にも植民者を送り出したようです(Mitchell, S., “Troas,” in: Hansen, M.H. & Nielsen, T.H. (eds.), An Inventory of Archaic and Classical Poleis, Oxford, 2004, pp. 1000-1001.)。ただこのうち、アリスバというポリスは、メテュムナ人によって奴隷化され、消滅してしまいました(ヘロドトス『歴史』1巻151章2節)。紀元前4世紀ごろに書かれた偽スキュラクスの『周航記』では上述の、アリスバを除いた5つのポリスが記録されています(97章)。このほか、ポリスとは言及・証明されないもののいくつかの居住地址がレスボス島のあちこちで見つかっています(cf. Spencer, N., A Gazetteer of Ancient Sites in Lesbos, Oxford, 1995.)。
(5) 直訳すれば「黒いスープ」となるわけですが、古代のスパルタでは別の名で呼ばれたかもしれません。例えば後2世紀頃の修辞家ポルックスは「ハイマティア(『名辞』6巻57章)」、後5世紀の辞書編纂者ヘシュキオスは「バファ(『辞典』s.v. Βαφά)」という名前の料理を記録しています。
(6) プルタルコス『モラリア』128c
(7) アテナイオス『食卓の賢人たち』114f-115a
(8) アテナイオス『食卓の賢人たち』75a
(9) アテナイオス『食卓の賢人たち』75d
(10) アテナイオス『食卓の賢人たち』78c
(11) Thompson, D.W., A Glossary of Greek Birds, Oxford, 1936 (ジュズカケバト: pp. 177-179; ガチョウ: pp. 193-195; コキジバト: pp. 172-173; ツグミ: pp. 85-86; クロウタドリ: pp. 101-102; サヨナキドリ: pp. 10-14)。なお、古典文献としては、アテナイオス『食卓の賢人たち』141e、プルタルコス『モラリア』233a。
(12) トゥキュディデス『歴史』4巻26章8節。van Wees, H., “The Common Messes,” in: Powell, A. (ed.), A Companion to Sparta, Vol. I., Hoboken, 2018, p. 241.
(13) アテナイオス『食卓の賢人たち』91d。cf. Mylona, D., Fish-Eating in Greece from the Fifth Century B.C. to the Seventh Century A.D., Oxford, 2008, p. 130.
(14) プリニウス『博物誌』32巻19節。cf. Thompson, D.W., A Glossary of Greek Fishes, Oxford, 1947, p. 185 (s.v. ὈΡΘΑΓΟΡΊΣΚΟΣ); 澤井悦郎『マンボウのひみつ』岩波ジュニア新書 2017年 137~139頁。
(15) Köhler, J.J., Die altenglischen Fischnamen, Heidelberg, 1906.
(16) Lythgoe, J. & Lythgoe, G., Fishes of the Sea: The Coastal Waters of the British Isles, Northern Europe and the Mediterranean, London, 1971, pp. 306-307; Nelson, J.S., Fishes of the World, 4th. ed., Hoboken, 2006, p. 524.
(17) Kottelat, M. & Freyhof, J., Handbook of European Freshwater Fishes, Cornol, 2007 (ヨーロッパウナギ Anguilla anguilla: pp. 61-62; トウェイトシャッド(ニシン科シャッド亜科アロサ属の魚) Alosa fallax: p. 69; エヴロタスミノー(コイ科の魚) Pelasgus laconicus: pp. 215-216; エヴロタスチャブ(コイ科の魚) Squalius keadicus: pp. 266-267; バファ(コイ科の魚) Tropidophoxinellus spartiaticus: p. 290; ゴールデンミュレットなど、ボラの仲間6種: pp. 464-469).
(18) アテナイオス『食卓の賢人たち』140b
(19) アテナイオス『食卓の賢人たち』140e-f
(20) プラトン『饗宴』174e-175e
(21) ウィトルウィウス『建築書』6巻7章5節
(22) アンドロンの構造・役割・バリエーションについてはNevett, L.C., Domestic Space in Classical Antiquity, Cambridge, 2010, pp. 43-62が参考になりましょう。
(23) ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』6巻7章97節
(24) シュッシティアの性格をめぐる議論については、古山正人「スパルタのシュシティア: シュムポシオン論の視角から」『国学院大学紀要』 (37) 1999年 15~35頁。
(25) アテナイオス『食卓の賢人たち』74d-e, 75b-f。フリュギアのイチジクについてはストラボンも触れています(『地理誌』13巻4章15節)。
(26) Rhodes, P.J. & Osborne, R., Greek Historical Inscriptions: 404-323 BC, Oxford, 2003, No. 88, pp. 440-449. 「エフェボイ(少年兵)が誓うべき、父祖伝来のエフェボイの誓い。私は聖なる武具を汚すことなく、私と共に隊列を組む、隣に立つ戦友を置き去りにすることはいたしません…(中略)…。ご照覧くださる神々は、アグラウロス、ヘスティア、エニュオ…(中略)…、祖国の国境、小麦、大麦、ブドウの樹、オリーブの樹、イチジクの樹」
(27) Cilliers, L. & Retief, F.P., “Bees, Honey and Health in Antiquity,” Akroterion, 53, 2008, pp. 10-12; Egan, R., “Insects,” in: Campbell, G.L. (ed.), The Oxford Handbook of Animals in Classical Thought and Life, Oxford, 2014, p. 188; Kitchell, K.F., “Animal Husbandry,” in: Irby, G.L. (ed.), A Companion to Science, Technology, and Medicine in Ancient Greece and Rome, Chichester, 2016, p. 544.
(28) ホメロス『イリアス』12歌167~172節。この箇所の「蜂」の解釈についてはHainsworth, J.B., The Iliad: A Commentary, Vol. III: Books 9-12, Cambridge, 1993, p. 336.
(29) プルタルコス『ソロン伝』23章
(30) ウェルギリウス『農耕詩』4歌は、古代における養蜂の仕方や巣箱を設置すべき場所について、蜂蜜の気質や性質、もし蜂蜜が死んだ場合についてなどが詠われています。ちなみにウェルギリウスの、特に蜜蜂の“分業的社会”や“王政的社会構造”についての記述は、中世ヨーロッパの人々の社会観に影響を与えました(甚野尚志『中世ヨーロッパの社会観』講談社学術文庫 2007年 35~39頁)。
(31) ヒポクラテス『流行病』7巻6節。このほか、『急性病の摂取法について・私生児』の34, 63, 72節、『食餌法について』53節、『婦人の自然性について』38, 56, 76, 91, 109節、そして紀元前4~3世紀に活躍した医師ヘロフィロスの断片(von Staden, H., Herophilus: The Art of Medicine in Early Alexandria, Cambridge, 1989, pp. 423-424.)にも蜂蜜を薬に用いたという記述があります。ただその一方で、保存状態が良くないなどの理由で、蜂蜜を摂取して体調を崩すこともあったことでしょう(cf. クセノフォン『アナバシス』4巻8章20節)。
(32) 紀元前7世紀中頃までは、トロイア戦争の英雄アガメムノンの―つまりアトレウス家の(アルカイオス 断片70 (=『オクシュリンコス・パピルス』X 1234 断片2 col. i)および、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』1巻4章81節)―子孫であると称していたペンティロス一族がミュティレネの有力者の座にあったようです。彼らの中には横暴な振る舞いをしていた人物もおり、そうした人は町の人からの報復によって、その都度排除されていました(アリストテレス『政治学』1311b23-31)。こうした環境で、詩人アルカイオスは生を受けたのです。アルカイオスが少年だった時に僭主だったのはメランクロスという人物でした。アルカイオスの兄と、その仲間であるピッタコスたちは、協力して僭主メランクロスを打倒するのですが、またすぐに新たな僭主ミュルシロスが現われます。ある時、ピッタコスはアルカイオスの兄たちと袂を分かち、ミュルシロスと手を組みました。アルカイオスたちは国外への退去を余儀なくされ、10年以上故国から離れることになります。やがてピッタコスはミュルシロスの死後に、町の執政(アイシュムネテス)に登りつめるまでになりました。「執政」ですが、ポリスの人々によって選ばれた僭主という性格があり(同1285a31-1285b1)、衛兵も与えられました(同1286b38-40)。のちの人々には、共和政ローマの独裁官のようなものと捉えられたようです(ディオニュシオス『ローマ古代誌』5巻73章、この用語についてより詳しいことは、McGlew, J.F., Tyranny and Political Culture in Ancient Greece, Ithaca, 1993, pp. 79-81をご参照ください)。ピッタコスはその治世において様々な法律を定め、ポリスを治めるにあたりどのように発揮されたかはともかく、自ら穀物の粉を挽き、人々の指針となるべきことを語りました(プラトン『プロタゴラス』343a、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』1巻4章76~81節、ストバイオス『精華集』3巻79章5節)。史料僅少の為、言い得ることは少ないのですが、紀元前7世紀末までのミュティレネにおける僭主の交代劇は以上のように要約できましょう。
 研究文献としては、Berve, H., Die Tyrannis bei den Griechen Bd. 1, München, 1967, S. 91-95; Hansen, M.H., Spencer, N. & Williams, H., “Lesbos,” in: Hansen, M.H. & Nielsen, T.H. (eds.), An Inventory of Archaic and Classical Poleis, Oxford, 2004, pp. 1026-1028; Lintott, A.W., Violence, Civil Strife and Revolution in the Classical City, London, 1982, pp. 51-52; 沓掛良彦『ギリシアの叙情詩人たち: 竪琴の音にあわせ』京都大学学術出版会 2018年 86~104頁をご参照いただきたく思います。ここではポリス研究や文学研究といった角度から切り取った書籍を上げましたけれども、これ以外にも、探せばいろいろあるかと思います。
 なお、本稿におけるアルカイオスとサッフォーの断片番号は、古典語・英語対訳のロエブ古典叢書の新しい版のもの(Campbell, D.A., Greek Lyric I: Sappho and Alcaeus, Cambridge, 1982.)を踏襲しています。
(33) cf. Bowie, E.L., “Early Expatriates: Displacement and Exile in Archaic Poetry,” in: Gaertner, J.F. (ed.), Writing Exile: The Discourse of Displacement in Greco-Roman Antiquity and Beyond (Mnemosyne, Bibliotheca Classica Batava Supplementum 83), Leiden & Boston, 2007, pp. 32-42. アルカイオスは生涯において2度の亡命生活を経験しました。1度目は僭主ミュルシロスを亡き者にしようとした廉でレスボス島内のピュッラへ追放され(アルカイオス 断片114古註 (=『ベルリン・パピルス』9569) cf. Schubart, W. und von Wilamowitz-Moellendorff, U., Lyrische und dramatische Fragmente (Berliner Klassikertexte, Heft 5. Griechische Dichterfragmente; 2. Hälfte), Berlin, 1907, S. 5-6.)、自分たちを裏切ったピッタコスへの恨みを詩に残しています(アルカイオス 断片129 (=『オクシュリンコス・パピルス』XVIII 2165 断片1 col. i)、17行以下)。ミュルシロスが死ぬと詩人は歓喜し(アルカイオス 断片332 = アテナイオス『食卓の賢人たち』430a-c)、故国ミュティレネに戻るのですが、肝心のポリスの人々はピッタコスに政治を委ねることを望んでいました。傭兵や守備兵を所持していたであろうピッタコスに、アルカイオスらはもはや反抗できなかったのでしょう(アルカイオス 断片5 (=『オクシュリンコス・パピルス』XV 1789 断片1 col. i)、12行; 60a古註 (=『オクシュリンコス・パピルス』XI 1360 断片3 + XVIII 2166(c)1A))、彼らは居場所を失い、2度目は遠くエジプト(ストラボン『地理誌』1巻2章30節)などの地へ逃れました。アルカイオスの詩にはアルカディアや北エーゲ海のことを詠ったものもありますので、この亡命は地中海の各地を転々とするものだったのかもしれません。
(34) Inscriptiones Graecae XII 5, 444, 36.51b-52a; Jacoby, F., Das Marmor Parium, Berlin, 1904, S. 165.
(35) アルカイオス 断片69 (=『オクシュリンコス・パピルス』X 1234 断片1, ll. 7-14.)
(36) ピッタコスとリュディア王クロイソスの関係を示す史料がいくつかあります(ヘロドトス『歴史』1巻27章; ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』1巻4章81節; ディオドロス『歴史叢書』9巻12章2節。断片的で、いかようにも読み取れるものの『オクシュリンコス・パピルス』XXIX 2506 断片102)。
(37) サッフォー 断片96 (=『ベルリン・パピルス』9722 fol. 5); cf. Schubart und von Wilamowitz-Moellendorff, op. cit., S. 16。『うたえ!エーリンナ』には、ゴンギュラという少女も登場するのですが、彼女は小アジアのギリシア・ポリス、コロフォンの出身という伝承があります(『スーダ』s.v. Σαπφώ)。
(38) ピッタコスと同じくギリシア七賢人のひとり、ペリアンドロスのこと(ヘロドトス『歴史』5巻95章2節)。
(39) アルカイオスの兄アンティメニダスは遠くバビュロンに赴き、兵士として戦ったといいます(ストラボン『地理誌』13巻2章3節)。サッフォーやアルカイオスに限らず、アーケイック期におけるレスボス島の詩人たちの行動範囲は広かったようです。例えばレスボス島内のポリスの一つ、アンティッサ出身のテルパンドロスという人には騒乱が発生したスパルタに招かれ、スパルタ人の諍いを歌の力で治めた…という嘘か本当かよくわからない記録がありまして、テルパンドロスの子孫やレスボス出身の詩人もまたスパルタで厚遇されたようです(ゼノビオス『諺集』5巻9章; フォティオス『辞典』s.v. μετά Λέσβιον ᾠδόν; ヘシュキオス『辞典』s.v. μετά Λέσβιον ᾠδόν; cf. Calame, C., “Pre-Classical Sparta as Song Culture,” in: Powell, A. (ed.), A Companion to Sparta, Vol. I., Hoboken, 2018, pp. 180-181.)。ちなみにこれはヘロドトスの創作でしょうけれども、レスボス島北部のメテュムナ出身の音楽家アリオンは海賊に海に投げ込まれたものの、イルカに救われタイナロン岬(現・マタパン岬、ペロポネソス半島の先端)に流れ着いたといいます(ヘロドトス『歴史』1巻24章; ストラボン『地理誌』13巻2章4節; ヒュギヌス『物語集』194章)。
(40) ミュティレネが植民したとされる居住地は以下の通り。なお、カッコ内が根拠となる古典文献および研究文献。①シゲイオン(へロドトス『歴史』5巻94章1節; cf. Cook, J.M., The Troad, Oxford, 1973, pp. 178-188.)、②アキレイオン(ストラボン『地理誌』13巻1章39節; cf. Cook, op. cit., pp. 178-188.)、③ヘルモナッサ(アッリアノス『ビテュニア誌』断片55; cf. Tsetskhladze, G.R., “A Survey of the Major Urban Settlements in the Kimmerian Bosporos,” in: Nielsen, T.H. (ed.), Yet More Studies in the Ancient Greek Polis, Stuttgart, 1997, pp. 55-57.)、④アイノス(エフォロス 断片39 (=『ハルポクラティオン』 s.v. Αἶνος); cf. Hirschfeld, G., “Ainos,” in: Wissowa, G. (hrsg.), Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft, Bd. I-1, Stuttgart, 1894, S. 1028-1029.)。シゲイオンとアキレイオンはトロイア北部、アイノスはエーゲ海北部、ヘルモナッサはタマン半島に位置していました。ヘルモナッサの創建は紀元前580~560年頃と考えられそうですが(Кузнецов B.Д. Ранние апойкии Северного Причерноморья // Краткие Сообщения Института Археологии АН СССР. № 204. 1991. стр. 34.)、果たしてこの地がミュティレネの植民市であったかは紀元後2世紀の、それも断片的な史料からの情報の為、取り扱いについては慎重になる必要があるでしょう。
(41) ヘロドトス『歴史』2巻178章; cf. Möller, A., Naukratis: Trade in Archaic Greece, Oxford, 2000, pp. 172-174, 200-202。ミュティレネはキオス、フォカイア、クラゾメナイ、テオス、ハリカルナッソス、ファセリス、クニドス、ロドスといった、小アジア沿岸やエーゲ海の島々の諸ポリスとともにエジプトのナウクラティスに聖地と商取引所を作りました(各ポリスの場所については下図参照)。

 エジプトはまた、サッフォーの親族とも関係のある地です。サッフォーの兄、カラクソスは商用でエジプトに赴いた際、遊女(名前はドリカとも、ロドピスとも伝わる)に大金をつぎ込んでしまったようです(サッフォー 断片15 (=『オクシュリンコス・パピルス』X 1231 断片1 col. i, 1-12 + 同断片 3); ヘロドトス『歴史』2巻135章; アテナイオス『食卓の賢人たち』596c; 『オクシュリンコス・パピルス』XV 1800 断片1)。この一件はミュテュレネの町の人々の噂となり、サッフォーは恥をかかされたと思ったのでしょう、兄に対する怒りの詩を残しています(サッフォー 断片5 =『オクシュリンコス・パピルス』I 7)。ともあれ、紀元前6世紀の早いうちからミュティレネは遠くエジプトと貿易を行っていました。
(42) Spencer, N., “Exchange and Stasis in Mytilene,” in: Brock, R. & Hodkinson, S. (eds.), Alternatives to Athens: Varieties of Political Organization and Community in Ancient Greece, Oxford, 2000, pp. 75-77.

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