Y. Sakaguchi

坂口恭久(Yasuhisa Sakaguci)

Y. Sakaguchi

坂口恭久(Yasuhisa Sakaguci)

最近の記事

両立不可能論の論証について(1)つづき

[ 両立不可能論の論証について(1) の続き]  ここから帰結すべきことは何だろう? 多くの立場が考えられるが、簡単に、ここでは2つだけ取り上げておく。 その1 一つ目の立場は、「別行為可能性」は否定しえない日常の生活実践における基礎的了解であるというもので、論理的論証において否定される類いのものではない、という立場だ。我々の日常生活における倫理や法律は、責任や非難の概念との連関において、人の行為は、常にではないにしても多くの場合において「別様にも行為できた選択肢」の中か

    • 両立不可能論の論証について(1)

      決定論(物理的決定論)と行為の自由とは矛盾するという考えは両立不可能論と呼ばれる。物理的決定論とは「自然法則全体の集合Lと、ある時点における世界の状態Sとが与えられれば、その後の世界の推移は一意的に決まる」というものだ。よって未来のある時点tにおけるこの世界の状態S'はすでに一意的に決まっていることになる。(LとSは変えられないと仮定している) 「自由」(行為の自由)をどのように定義するかは難しい。その定義の仕方そのものが、論点を先取りしがちだからだ。 両立不可能論に登場する

      • 論理結合子の意味と日常言語

        論理結合子("または","かつ","ならば","でない",等)の意味は日常言語に基礎を持つ。日常言語は雑多な用法の大海だ。では、日常言語(例えば日本語)の用法を観察することにより論理結合子の意味が抽出できるのか?否。 論理語は「規格化された意味」を与えられているのであり、それゆえ「規範的」である。 「正しい推論」「妥当な推論」とは、そのような「規範性」と結びついており、その点で論理学は「 ~すべき」(当為性)と切り離せない。心理学が人間が現実にどう推論するか(時に間違うか)を

        • はじめに

          コロナの時代(2020年)は変革の時期である。社会のあり方や情報の流通・交流が目覚めたように変わりつつある、いや変わるべき時代なのだろう。 だからというわけではないが、自分の興味のある事柄につきいて、実に稚拙ながら、何かを書いておこうと思う。ほとんどは自分の記憶のための走り書き、アイデアのスケッチになると思う。 興味のある分野は、「決定論と自由」「論理の哲学(論理学の哲学)」「非古典論理」など。 (私は20数年前にすべて投げ出してしまった。それゆえ、稚拙さ、不正確な部分も多い