両立不可能論の論証について(1)つづき

両立不可能論の論証について(1) の続き] 

ここから帰結すべきことは何だろう?
多くの立場が考えられるが、簡単に、ここでは2つだけ取り上げておく。

その1
一つ目の立場は、「別行為可能性」は否定しえない日常の生活実践における基礎的了解であるというもので、論理的論証において否定される類いのものではない、という立場だ。我々の日常生活における倫理や法律は、責任や非難の概念との連関において、人の行為は、常にではないにしても多くの場合において「別様にも行為できた選択肢」の中から自由意志に基づいて選択したという相互了解に基づいている。
例えば、手元にある『基本刑法Ⅰ---総論』という本の「責任」に関する項目の記述を引用してみよう。

「行為者を非難できるのは、構成要素に該当する違法な行為を選択しない自由(他行為可能性、意思の自由)があったのに、あえて(または不注意で)それを選択したからである。・・・中略・・・
要するに、責任とは、他行為可能性・意思の自由を基礎とした非難可能性である。このように考えるのが現在の通説である。」(p.219)

ゆえに、論証が妥当であり矛盾が受け入れられないなら、否定されるべきは「決定論」の方である、と論じられるかもしれない。

「アームチェアーに座りながら、右手を上げる(または下げる)だけで決定論を論破できるのですね。なんとすばらしい!」

この立場をとる哲学者は、その様な揶揄に何と答えるだろうか?

その2

2つ目の立場は、論証が示す通り、決定論が正しければ「別行為可能性」が存在しないことは明白であるというものだ。その様な論者は次の様に続けるかもしれない。「あなたの言う他の可能性とやらはどこに存在するのですか?その存在を証明して下さい」と。
私は、このような反論が一番手強く興味深いと感じる。このような論者は「現実世界(actual world)のみが「存在」すると主張するのだろう。あなたは答えるかもしれない。確かに、現実に存在(actually exist)するのは「この世界」だけであろうが、別様のあり方もまた「可能性」として「存在」(exist)したのだと。では、この2番目の"存在"はどのような「存在」なのか?そしてその「存在」を認めない人に対して、どのように論議することができるのか?ひとたび可能性としての存在を認めるやいなや存在のパラダイスが出現する。存在・論理・形而上学の交差する哲学上の議論をここでは繰り返さないことにしよう。
私の考える一つの反論は、可能性としての存在を否定する彼らに対して、「ではあなたは、~を選ぶ、迷う、決断する、であったかもしれない、偶然だった、等々の言葉を使わないのでしょうか?使うなら、その意味をどうやって理解しているのですか?」というものだ。「可能性の存在を認めないあなた方は、それらの言葉の使用を止めないのですか?」
ハード決定論者が、可能性を暗黙のうちに前提している概念に関する「言語」を理解、あるいは想像、できるか?という問題は課題として残しておきたい。
ひとつ指摘できるのは、彼らにもしこのような反論を行なうとすれば、結局のところ、<その1>で検討した、「日常の生活実践における基礎的了解」としての「別様可能性」の根源性に行き着くのではないかということだ。
そしてまた、話は振り出しに戻る。

話は循環しているように見える。しかし必ずしもすべての循環が悪いというわけではない。言語や概念の体系・ネットワークにおいては、概念は相互に規定し合っているからだ。


※間があいてしまいました。以前書いた途中までの下書きですがそのまま上げておきます。別のことを書き始めます。

#決定論 #自由 #自由意志 #両立論  #両立不可能論


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