論理結合子の意味と日常言語

論理結合子("または","かつ","ならば","でない",等)の意味は日常言語に基礎を持つ。日常言語は雑多な用法の大海だ。では、日常言語(例えば日本語)の用法を観察することにより論理結合子の意味が抽出できるのか?否。
論理語は「規格化された意味」を与えられているのであり、それゆえ「規範的」である。
「正しい推論」「妥当な推論」とは、そのような「規範性」と結びついており、その点で論理学は「 ~すべき」(当為性)と切り離せない。心理学が人間が現実にどう推論するか(時に間違うか)を研究するのに対し、論理学は「何が正しい推論か」の学問であろう。
論理的真理(例えば古典論理の真理)は、経験を超えたプラトン主義的対象であろう。しかしそれはもっぱら論理語の「意味」の定義に由来するトリビアルな真理と言う人もいるかもしれない。
論理(logics)について多元主義、相対主義、プラグマティズムを採ることは比較的容易な道だ。しかしそのとき「正しい」や「妥当な」の意味もまた相対化される。そのような状況全体をいかに捉えるかは、論理の哲学の仕事だ。

話は変わる。すべての動物が言語を習得できる訳ではないように、論理語を理解し論理的な推論、論理的な思考を理解できるようになるのは、それを可能にする生得的な制約(生得的獲得装置のようなもの)があるのか?例えば、古典論理を理解する「構造」をあらかじめ脳に備えているのか?それとも現実の、世界の「構造」が論理に対応しており、現実世界から学習されるのか?それとも言語の習得が、論理語の意味の習得を含むのか?


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