見出し画像

普通の遺品と「デジタル遺品」の違い

 デジタル遺品はよく怖がられる。デジタル遺品はよく中身を見ずに処分してほしいと言われる。普通の遺品ではそんなに聞かない評価だ。なんでデジタル遺品は普通の遺品とは違う存在として見られてしまうのだろう?

遺品は時代ごとに案外自由に姿を変える

 今回はちょっと俯瞰して「デジタル遺品」とは何なのかというところを考えてみたい。

 デジタル遺品というのは、スマホやその中に入ったデジタルデータ、インターネット上のアカウントやコンテンツなど、デジタルを通してしか実態が掴めない遺品全般を指す。おそらく21世紀になって概念が一般化した新参者の遺品だ。新参者ゆえに異質な感じがするが、元からある遺品もそこまで長い年月を経ているものばかりではない。ちょっと先輩なだけだ。

 自動車が一般に広く普及して相続対象になったのは100年程度前のことだし、ゴルフ会員権が相続対象として注目を集めたのはバブル期に入ってからだ。写真にしても、遺影が故人の依り代のように意識されるようになったのは日露戦争(1904~5)が契機といわれていて、庶民がカメラを手にして旅行写真などを気軽に残すようになるのは高度経済成長期まで待つ。ちなみに火葬率が6割を超えたのも同時期だ。それまでは柩ごと埋葬するために骨壺が必要ない場合も珍しくなかった。一方、古来から最重要な遺産とされてきた土地=不動産は、近年になってお荷物的な扱いを受ける事例が散見され、相続放棄の主要因になっていたりもしている。子孫にとって資産価値よりも税負担が重く感じるケースが増えているためだ。

 そんなわけで、遺品というのは様々な流行を受けながら案外自在に変化している。デジタル遺品もいまの時代の要請から生まれたにすぎない。

デジタルの異質感は表層にアリ

 それなのに妙にとっつきにくく感じるのは、これまでのアナログな遺品と明らかに勝手が違うからだと思われる。端末内にしろインターネット上にしろ、デジタル遺品は機器を操作して鍵を開けたりログインしたりしなければ触れられない。触れても、正体に質感がないのでどうも掌握した実感が湧きにくい。

 ただし、それは表層上のことで、本質的にはこれまでの遺品と何ら変わらない。デジタルだろうが紙焼きだろうが家族写真は家族写真だし、紙の預金通帳だろうがネット銀行のマイページだろうが出入金の価値は同じだ。表層を覆う“デジタルのベール”を取り払って対峙すれば、なんてことはない、いつも遺品ということになる。

 デジタルのベールを剥いだスマホやパソコンのイメージは、その人の自部屋に近いんじゃないだろうか。部屋の中には、大切な書類も誰かに託したいものも、こっそり隠しておきたいものもある。それらが自分に都合のいいように配置されている場であることに変わりはない。端末のパスワードは部屋の鍵だ。

 自分が死んだら自部屋はどうなるだろう? 家族は預金通帳などの重要書類を探したがるし、遺品整理の必要も感じるはずだ。部屋に鍵がかかっているなら、家族はこじ開けるか大家さんに頼むかするだろう。同じことがスマホやパソコンにも当然起こりうる。端末がロックされていたら、必死でパスワードを入力するだろうし、パソコンならハードディスクを物理的に抜き出すかもしれない。

本質的に新しいのはネット上の日記だけかも

 以上のように、デジタル遺品というものは大抵が従来の遺品に変換して考えられる。そのなかで数少ない例外といえるのが、インターネット上に残された日記だ。具体的にはブログやSNSの公開投稿の類い。

 話し相手がはっきりしているチャットやメールは手紙に置き換えられるし、非公開で残されたメモは紙の手帳に書かれた日記とよく似ている。では全世界に公開された日記は放送に近いかといったら、そこまで公共性があるものではない。とはいえ、便所のラクガキなんて揶揄されるような匿名の書き捨てもそうはない。適度に公共的で、適度に匿名的で、適度に開放的。絶妙な塩梅で社会の不特定多数とつながりながら、独り言をつぶやける環境を形成している。こんな場はインターネットが普及する以前はなかったんじゃないだろうか。

 亡くなった人が残していったブログやSNSには、現実社会では滅多に対峙できない独白がよく見つかる。どこかで聴衆が耳を傾けていることを前提にした独り言であったり、誰でもいいから聞いて欲しい一方的な感情であったり。紙の日記や出版されたエッセイにはない独特の距離感がある。

 デジタル遺品の問題は、表層的なところに本質があると思う。だからある意味薄っぺらい。薄っぺらいからこそ対処しやすいところもある。その一方で、故人がネットに残した日記からは簡単には掘り起こせない深さを感じることがたびたびある。

 デジタル世界と人の死には、そんな深度の異なる異質感がついて回る。これからもその一端一端を切り取って咀嚼してこの場で紹介していきたい。

※初出:『デジモノステーション 2018年1月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.20)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?