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故人アカウントの取り扱いはどこか殯(もがり)に似ている

 故人のSNSやブログに遺族が訃報を載せたり、そっとページを抹消したりすることは珍しくない。その操作は厳密にはルール違反となることが多いが、実際には黙認されている。この折り合いの付け方にいにしえからの儀式「殯(もがり)」を思い出した。

緊急時の“なりすまし”が黙認される空気

 いま使っているSNSやブログは、自分が死んだ後に誰がどうやって後片付けしてくれるのだろう?

 運営側が利用者の生死を自動で確認する術はないので、最初に動いてくれるのは家族や友人ということになる。その人にとって一番手っ取り早い方法は、スマホやパソコンに残されたログイン情報を利用し、持ち主になりすまして会員ページで解約などの処理をすることだ。

 サービス提供元のサポートページに相談する正攻法だと、持ち主が死亡したことや申告者の身元と関係性などを証明する手間がかかるし、友人という血縁でない関係性だと応じてくれないケースもある。葬儀の告知をアップするなどの緊急性を要する行為は間に合わないことが多い。

 このため、利用規約で本人以外のログインを認めていないサービスであっても、本人の死亡直後に関しては黙認しているのが現状だ。私はこれまで国内外の100社以上の提供元に、この遺族や友人による“なりすまし処理”の是非を尋ねてきたが、咎める声を聞いたことは一切ない。一周忌や三回忌まで故人に成り代わって更新を続けるのは問題だが、死亡直後は不問という空気になっている。「不文律」ではなくて、あくまで「空気」だ。

 この、人が亡くなった後のルールがぼやける期間。殯に近いものがあると思った。

生と死を見守る儀式が「殯」

 殯は日本の古来から行われてきた葬送儀礼で、人が生から死に移る移行期間を見守る目的で行われてきた。現在も天皇や皇后の大喪儀の重要な儀式のひとつに数えられている。

 心停止や脳死などの正確な判定ができるようになったのは20世紀のこと。それより前、さらには古代まで遡った日本には、仮死状態や失神状態と死をすぐさま区別を付ける術はなかった。もしかしたら復活するかもしれない人を早とちりで葬送しないために、小屋などにしばらく安置する習慣が生まれて、それが殯となったわけだ。似たような風習は世界中でみかける。

 古代日本の場合、一般庶民は10日間くらい安置してから埋葬されることが多かったらしい。貴族や大地主になると期間が延びて、一説によると3年間も殯した例もあったとか。そんなに長く安置したからといって生還する確率が上がることはないが、跡継ぎを含む新体制の人事に時間がかかったり、政情が不安定な地域でキーマンの死を公に認めると一層の混乱を招きそうだったりすると、「生きているかも」という状態が引き延ばされていくのは想像に難くない。

 それはいわば、生理的には死んでいても社会的には生きている(生かされている)状態といえる。それが冒頭のケースと重なって映る。

遺族の身体を借りての後片付けという解釈

 こと契約においては、本人が健在なときほどアクションを起こす頻度は少ない。便利に使っているなら自動継続するし、無料サービスなどで放置しても問題がなさそうなものはわざわざ解約手続きをとらないことも多い。オートマチックでいかないのは、何らかの意思で契約するときと解約するとき、プランを変更するときくらいだろう。健在期間全体でみれば、砂漠の樹木のように散らばっているはずだ。

 ところが本人が亡くなってしまうと、そうした能動的なアクションをする必要性が一気に押し寄せてくる。契約者が死亡時に告知を促す運営元もあるし、定額サービスなら利用者がいなくなったのなら解約したほうがいい。誰かが引き継ぐにしても、これまで引き落とし用に指定していた口座が凍結されたら、名義や口座の登録を変更しなければならない。オートマチックで放置しておけばいいのは、もともと放置していたサービスくらいだ。

 つまるところ、人の死はアクションを起こす大きなトリガーになる。ところが、アクションを起こすべき本人がもういない。だから、遺族たちが本人に成り代わって一生懸命後片付けすることになる。それは、本人がやるべきことを遺族たちの身体を借りて処理しているともいえないだろうか?

 急いでやらなければならないアクションの波はやがて収まる。それまでの「死亡後の緊急時」と想定されるまでの期間、亡くなった本人は遺族たちに“なりすまして”後片付けをする。

 社会的なアプローチをしている。

 社会的に生きている。

 「生理的には死んでいても社会的には生きている」状態が殯なら、この期間も殯と言っていいはずだ。故人のSNSやブログを、遺族たちがただちに解約したり訃報記事をアップしたりする行為も、一種の殯ではないだろうか。
 さらに、この定義に沿うと、デジタル領域以外の死後処理もモガリといえる要素がたくさんあるかもしれない。

 たとえば、2018年7月に改正された相続法により、故人の預金口座から遺族が最大150万円(※一金融機関につき)引き落とせる「仮払い制度」が認められている。故人の口座は遺産分割協議が済むまで凍結されるので、これまでは預金をシェアして生計を立ててきた遺族が当面の生活に困ったり、葬儀費用の支払いに悩んだりというケースがよくあった。遺族が収支の体制を新調するまでの移行期間も殯とすれば、この仮払い制度は殯を公に支援する新たな仕組みといえるかもしれない。

生と死の境は明確か、曖昧か

 生と死の境はどこにあるのだろう? 考えれば考えるほど、いろんな境界や汽水域が発見できる。

 末期がんで闘病しているある男性のブログは、緩和ケア病棟に移って間もなくの2008年秋から更新が止まっている。ブログには大勢の読者がいて、最終投稿のコメント欄で安否を気遣うコメントがいくつも付けられたが、「ご冥福をお祈りします」という文言が見られるようになったのは2016年からだった。それまでは誰も生死が確かめられない苦しい空気が支配していた。現在も完全には彼の死を認めない書き方をしている人もいる。

 とかく、死の断定は難しい。だから、現代においても殯的なクッションは必要だと思う。

※初出:『デジモノステーション 2020年4月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.47)

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