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「デジタル追悼」は日本に馴染まない、との考えを改める

 外出自粛が叫ばれる昨今、葬儀のネット中継サービスがにわかに注目を集めている。ネットで故人を偲ぶのに違和感を持つ人もいるが、実のところ、ずいぶん前からそれは自然に行われいた。オンライン墓地について考える。

14万5000人超の故人のページを持つまいり

 故人のサイトの追跡調査を始めて10年になるけれど、現在もたまに「なんで今まで知らなかったんだ…!」とショックを受ける出合いがある。敗北感に打ちひしがれながらサイトを隅々まで読んでいるうちに興味深さが追い抜かしてきて、勝手に逆転劇のカタルシスを味わったりする。2019年9月に目にした追悼サイト「まいり」がそれだ。

 「まいり」は2013年に「死去.net」という名称でスタートしたサイトで、当初は故人の命日を思い出せるサービスというコンセプトで運営していた。トップページには「本日が命日の人」や「最近亡くなった人」などのリストが並び、毎日ページを開くだけで故人が偲べる。各人の氏名からプロフィールページにジャンプすると、追悼コメントを添えたりサイト上で線香や花を供したりできる。

 故人のデータベースは発足まもなくの時点で13万人を超えていた。当初は管理人さん自ら動いて全国紙やロイター通信、Wikipediaなどを情報源に作成していたが、読者からの登録が軌道に乗っている現在は拡張を読者に任せるかたちになっている。登録できる故人はニュースサイト等で訃報が確認できる人に限られるが、1日15件程度のペースで増え続けているそうだ。2019年10月時点の収録人数は14万5000人を超えている。

 1日に訪れるユーザーは7000人前後。月間PV数は90万程度だ。

無数の追悼メッセージがサイトに命を与える

 「まいり」のどこが興味深いかというと、何より機能していることだ。ランダムで故人のページを眺めていっても何かしらの追悼コメントがついているし、没後も根強く人気がある偉人や芸能人のページは隙間時間では読み切れないほどだ。ひとつ一つのページが追悼の場として機能していることを証明している。アクセス数はその裏付けといえよう。

 こういう空間が日本語のサイトで成立するのは無理だと思っていた。

 過去に何度かサイバー墓地が成り立つのかというテーマを採り上げたことがある。米国には数万人規模の追悼ページを抱える1996年スタートの追悼サイト「Virtual Memorials」があり、中国では「中国稜网(ちゅうごくりょうもう)」というヴァーチャル墓地が提供されていることなどを紹介してきた。近い動きは日本にもあり、2000年前後から都内の霊園がオプションサービスとして提供したり、起業家が半ば社会奉仕としてサイトを立ち上げたりもしている。

 しかし、Virtual Memorialsのように追悼文化の一角を担うような定着ぶりをみせる国内事例にはなかなか出合えず、新興のサービスが生まれても志が少し空回りしているような印象をいつも抱いたりした。そして、それが正解だったケースが何度もある。その結果、そもそも墓参行為が全年代に深く浸透している日本人にはインターネットで手を合わせたり追悼したりする行為は馴染まないんじゃないかと、なかば決めつけるようになっていた。

 そこにきての「まいり」だ。根底から考えを改めねばなるまい。

追悼サイトは厳粛に向き合える力があってこそ

 確かに、サイバー墓地、あるいは追悼サイトで故人を偲ぶハードルはそこまで高くない。少なくともインターネット葬儀よりは簡単なはずだ。

 葬儀などの公共性のある儀式は、基本的に複数の他人の存在があって成り立っている。皆がフォーマットに従って振る舞い、自分も逸脱しないように気を張る。そうやって場にいる全員が儀式を成立させる部品となることで、厳粛な空気が生まれて追悼行為の納得感が高まるところがある。

 ネットを使った葬儀のライブ中継は外出自粛が叫ばれるようになった2020年春頃から急速に広まっているが、それまではごく一部で実験的に取り組まれていた範囲だった。それでもキワモノ扱いされる向きあったし、実際の現場あってこそのサービスで、オンライン上だけで完結するのはやはり難しい面が現在もある。

 それに対して、追悼サイトで故人を偲ぶ行為は、すべてパーソナルな場で完結する。他人の目や周囲の作った空気感を前提としない。それぞれが好きな場所、好きなタイミングで故人のページと向き合い、自分なりの厳粛さで追悼できる。そのサイトに故人を偲ぶに値する説得力さえあれば、いつでもきちんと追悼できる場が成立する。たとえば、故人が残したブログやSNSページなら、生前からのその人の息吹が感じられるから、ただ存在するだけで説得力が生まれる。故人が生前最後に残した何気ないつぶやきや投稿に「ご冥福をお祈りします」や「R.I.P」がつくのはそうした作用によるものだと思う。

 その力を追悼サイトという“余所様”の場に宿すのが難しかった。故人に縁がないから、その場自体が追悼に値する説得力を持たないとなかなか使われない。「まいり」はそれができている。おそらくは、最初から13万人の故人という圧倒的な数字が功を奏したのではないかと思う。そうして説得力が人を呼び、大勢の人の習慣となり、やがて文化へとつながる道を作った。

 惜しむらくは、今のところニュースサイトで訃報が裏取りできる人物しか追加できないことだ。ただ、サイトには「誰でもご登録いただけるサイトを現在準備中です」と書いてあるし、今後の目標について管理人さんもこう語っている。

「希望されるすべての方におまいりできる場所を無償で提供したいです。個人的にAIやロボット技術に興味があり、そういったテクノロジーを利用して、寝たきりの人でも自分の力でお線香をあげたりできるようなサービスができたら良いなと思っております」

 これからの文化創造に期待したい。

※初出:『デジモノステーション 2019年12月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.43)。転用に際して一部を改変。

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