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SNSで流れてくる訃報とはどう向き合えばいいのだろう?

 SNSやチャットでやりとりすることが当たり前になった現在は、ネットのない時代と比べると訃報に接する機会が増えている。とはいえ、突然の訃報に接したとき、自分の言葉で流ちょうに返せる人はそうはいないだろう。ショックを受けながら近しい人の死を知らせる相手とどう向き合うのが良いのか、考えてみたい。

動揺が色濃い投稿が目にあふれる

 家族や同僚以外の友人知人の訃報は、どこで受け取るだろう?

 最近はSNS経由という人が増えているのではないかと思う。ダイレクトメッセージで誰かに教えてもらうこともあれば、タイムラインに流れてくる故人を偲ぶ投稿がきっかけということも珍しくないだろう。SNSは現代の井戸端といえる。

 筆者も40歳前後になって、年齢の近い人の訃報にSNSで接することがちょっとずつ増えてきた。距離が近い人の訃報ほど、共通の知人が多くなりやすく、複数人による寂しい投稿を繰り返し目にすることになる。そして、それぞれの投稿者の悼み方の違いが印象に残ったりする。

 ある人は、「●月●日、●●●●さんは●●●のために息を引き取りました。」と事実だけをそっと記す。

 ある人は、その人と故人だけの印象深いエピソードを綴り、思い出から故人の人となりを伝えようとする。

 ある人は、「●●ちゃんはきっと生まれ変わって、私たちの前に戻ってきます。」と、伝統的な価値観をもって死別のショックを和らげようとする。

 またある人は、「そんな・・・。ショック・・・。」と、ただただ悲嘆に暮れただけの言葉を残す。

 実際に会ったことのある人の投稿なら、どんな感じで語っているのか具体的なビジュアルが浮かんでくる。そのなかで「あの人がこんな感じの投稿をするんだ・・・」と少々意外な気持ちになることもある。

 宗教観や死生観云々の話じゃない。何事にも動じない人が感情的になっていたり、逆に涙もろい人が一切の感情表現を省いていたり。そういった平常と違う感じ、死別の戸惑いからくる揺らぎのようなものが心のひだに引っかかってくる。

20代の故人の記憶がいまも脳裏を巡る

 揺らぐのは当たり前だ。死別のショックは簡単に慣れるものじゃない。
 15年ほど前、ほんの1年間だけだが、葬儀社スタッフとして働いていたことがある。

 そこで様々な葬儀の現場を目の当たりにしたが、振り返ってみると、故人が高齢であるほど遺族や会葬者は落ち着いていたように思う。平均寿命の前後になれば周囲もある程度はその人の死を覚悟するというのもあるだろうし、関係の深い人ほど故人と同じくらいに年齢を重ねていて、大切な人との死別の経験を深めているのもある気がする。とにかく、故人との永訣を受け入れる体勢が取れている人が多かった印象だ。

 対して働き盛りで亡くなった人の葬儀は、その死因を問わず、各人の哀切があふれて式全体が悲愴感に包まれていることが多かった。まだまだ若い人の死は受け入れがたく、その悲嘆に直面する人たちも総じて若い。過去の死別経験から心を落ち着ける術を探るといったことが難しい人が多く、抑えきれない感情や戸惑いが式場に広がっていく感じがあった。実際、今でもディテールまで思い出せる葬儀は若い人のものが多い。

悲嘆を表に出す行為はもっと推奨されていい

 若い人との死別ほど、感情の揺らぎが大きくなるのは仕方がない。そして、その揺らぎが大きい感情は、SNSでより目立ってしまう傾向がある。

 高齢者のネット利用は年々伸びており、今や70代でも5割以上の人が使っていると言われている。しかし、SNSのボリュームゾーンはやはりもう少し下の世代だ。フェイスブックの国内利用者数の統計を見ても40代が突出している。

 だから極端な言い方をすると、SNSというのは死別の経験をこれから積む人たちの井戸端なんじゃないかと思う。

 この井戸端は、発した言葉がテキストとなって長く残り、故人のページにリンクされたり、公開設定によっては見ず知らずの人の元にも届いたりしてしまう。その結果、SNS利用者たる我々は現実の葬儀会場で交わした会話以上の情報に触れらることが珍しくなくった。そして、ほとんど無関係な人の揺らぐ悲嘆を目にすることも日常の一部になっている。

 この状況をどう捉えればいいのか。

つい無言を選んでしまう。けれど、一歩先を考えたい

 己の死生観を強引に押しつけたり、死を茶化したりするような態度はもってのほかだ。けれど、それ以外の揺らぎには大いに寛容になったほうがいいと思う。悲嘆のなかに自己憐憫が透けて見えたり、パニック気味に大仰に振る舞ったりするのも目をつむるべきだと思う。皆が死別に不慣れなのだから、アウトプットの粗を責めるよりも、積極的に表に出して死別と向き合うほうがはるかに建設的だ。何しろ、普段は滅多にわいてこない類いの感情だ。きちんと処理できる場面なんて滅多にない。

 こんなことを書いている筆者も、死別の悲嘆を前にするとつい無言になってしまう。「ご冥福を」という言葉が遺族の感情を逆なでするのではと考えたり、「悲しいね」ボタンはむしろ不謹慎じゃないかと考えたりしてしまう。それは配慮のようでいて自己保身だったりする。その場を取り繕うより、人の粗を責めるより、悲嘆を昇華できるように己と向き合って、人に学ばせてもらうほうがいいのに・・・。

 そんな感じでこの井戸端を眺めると、なんとも貴重な場に思えてくる。

※初出:『デジモノステーション 2018年5月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.24)

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