見出し画像

喪服はかつて白が主流だった――博物館サイトで辿るニッポンの死

 お葬式はとても伝統感があるけれど、案外時代に応じてフレキシブルに変化している。そうした変化は博物館サイトなどで史料に触れることでみえてくる部分がある。

祭壇もせいぜい半世紀前

 最近のお葬式は、祭壇を置かずに花を添えて慎ましやかにすることが多い。とくに都市は家族葬といって身内+αのごく少人数で送るスタンスが式全体の5割に迫る勢いで増えていて、式すらせずに火葬場で焼いて終わりの直葬(ちょくそう)というタイプも伸びてきている。

 かつてあった、祭壇や花輪を盛大に飾って、百人以上の参列者が集まるようなお葬式はだんだんと珍しくなっている。葬祭ホールでは2~30人向けの小さな式場も選べるようになっている。火葬場の駐車場は大型バスの区画が消されて、マイクロバス用に細分化されたりもしている。いまは65歳以上の人口が27%を超える超高齢社会。亡くなる頃には社会との関係が薄くなっている人も多いし、地域社会のつながりも薄くなっている。昔ながらのお葬式の風景を維持するのは難しい世の中になっているわけだ。

 けれど、ご安心を。この「昔ながら」は、別に何百年と連綿と守られてきた伝統というわけではなく、せいぜい戦後からの風習が大半を占めている。祭壇自体がその前後に生まれた流行だし、それ以前の時代は霊柩車なんてほとんど走っていなかった。参列者に清めの塩を入れるのも70年代にどこかの葬祭グッズ企業が広めたものと言われている。葬祭ホール自体、90年代以降に立てられたものが主流だったりする。

 案外、葬送文化は時代のニーズにあわせて柔軟にフィットしていくところがある。親戚のおじさんやおばさんは現在のスタイルに戸惑うこともあるかもしれないが、その人たちが伝統的と思っているスタイルも、たった数十年前に現れた潮流だったりする。

 裏付ける証拠は図書館や博物館などいろいろなところにあるが、一部の史料なら、いまはわざわざ足を運ばなくてもネットで触れられる。いい時代だ。それが今回の本題。ネットでかつての葬送文化を旅してみたいと思う。

開国前夜の野辺の送りの絵が残る

 150年前、開国前夜の幕末の頃を覗いてみよう。長崎歴史文化博物館のサイトは、出島でシーボルトお抱えの絵師として知られる川原慶賀(1786頃-1860頃)の作品を高解像度で公開している。そのなかに「日本人の一生」シリーズにある「病臥」から「葬列」までの連作が興味深い。

 「死去」と「湯灌(ゆかん)」で描画された、亡くなった直後に僧侶が呼ばれてお経を読んだり、棺に納める前に故人の身体を清めたりする光景は現代に通じるところがあるだろう。その後の「墓堀り」や屋敷前で火を灯す「送り火」も、その名残りを遺した儀式がいまに伝わる。現代からみてもっとも異質なのは当時の葬儀のメインだった「葬列」の場面かもしれしない。上に置いているページがそれだ。

 柩を入れた輿を数人で担ぎ、僧侶や関係者やその前後に並ぶ。これは“野辺の送り”と呼ばれるもので、遺体を屋敷から墓地や野焼き場まで皆で送り届けるという儀式だ。柩の入った左側の輿を持つ人たちは喪服を着た近親者。当時の喪服は男女ともに白かった。黒に変わっていったのは明治時代に西洋文化が流入してからになる。この柩の入った輿が、宮型霊柩車や祭壇に変化していったといわれている。

万葉集の写本も地獄草紙もネットで見られる

 この時代は土葬が一般的だったが、火葬の歴史も長い。日本で火葬が広まる起点となったのは、700年に亡くなった僧侶・道昭の葬送だといわれている。その少し後に成立した『万葉集』には、愛する伴侶を火葬して、遺灰を野に撒く次の歌が収録されている。

 玉梓(たまずさ)の
 妹(いも)は珠(たま)かも
 あしひきの
 清き山辺に
 撒けば散りぬる

 万葉集はいくつかの書き写された本が現存しており、その画像を公開している組織もいつくかある。

 また、国宝から当時の死生観や死後観が味わえるものもある。国立博物館が所蔵している国宝や重要文化財を公開しているサイト「e国宝」では、12世紀に作られた絵巻物『地獄草紙』や『病草紙』が閲覧できる。

 インターネットはせいぜい30年程度の歴史しかないが、過去の史料につながることで、「かつての葬儀」よりも遙かに古いニッポンに触れられる。それが楽しい。

※初出:『デジモノステーション 2017年5月号』掲載コラム(インターネット死生観 Vol.12)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?