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SNSのアカウント削除を「ネット自殺」と呼ぶ人たち

 「デジタルデトックス」や「デジタル断捨離」なんて言葉も聞かれるけれど、海外ではその類義語として「デジタル自殺」という表現を使う例は10年前からちらほらみられる。ネット上の「死」の定義について考えてみた。

蘭伊で誕生した「ネット自殺」の装置

 偶然だろうか。10年前、2009年に欧州で似たコンセプトの“自殺サイト”が2つ立ち上がった。

 ひとつはオランダに拠点を置く「WEB2.0 suicide Machine(WEB2.0自殺装置)」。同サイトでFacebookやMyspace、Twitter、LinkedInなどのIDとパスワードを入力すると、各SNSのアカウントが抹消できるというもの。通常ならサービスごとに抹消まで数ステップの手続きが必要になるところを、このサイト上で一括処理できるところが特徴だった。ただし、開始からまもなくの2010年1月にはFacebookから知的所有権の侵害等を理由に提供を止めるよう通達が届き、対応SNSから除外。現在は残り3つの“自殺”機能も停止しており、ページだけが残された遺構と化している。

 もうひとつは、Facebookのみをターゲットにしたイタリア発の「Seppukoo.com(切腹.com)」。Facebookには亡くなったユーザーのページを保護する「追悼アカウント」モードがあるが、Seppukoo.comでログインすると自らの手で追悼アカウント化できるという。追悼アカウント用の壁紙もサイト内で設定できるほか、その後に書き込まれた友人たちからのコメントも閲覧できる。ユーザーがFacebookで再びログインすれば「いたずらで追悼アカウント化された」と判断されているため、心変わりしたときはアカウントの復活も可能だ。こちらもFacebookからの抗議の結果、2011年2月に機能を停止した。いまは自前のコミュニティページのみを細々と続けている。

 この2つのサイトに共通するのは、SNSアカウントを自ら捨てる行為をネット上の自殺だと規定しているところだ。自殺、つまり持ち主の死と結びつける発想が面白い。日本でも「デジタルデトックス」や「デジタル断捨離」みたいな概念が広まってはいるが、「インターネット上の余計な自分は殺しましょう」みたいなノリはあまり目にしたことがない。

ネット上の「死」は不可逆的かなあ?

 はたして、SNSアカウントを失うことは「死」だろうか?

 私の感覚だと、SNSのアカウントを抹消するのは単にコミュニケーション手段のひとつを捨てる行為でしかない。数年前から年賀状を出さなくなったが、それと似た感じだ。SNSとハガキだと個人的には使用頻度に雲泥の差があるが、延長線上にあるのは変わらない。あれからハガキでしか便りをくれない友人とは交流がなくなったから、友人との関係は死んでしまったのかもしれない。けれど、それは友人との関係の死であって、自分自身の死ではない。

 コミュニケーションではなくて、思い出の喪失という方向ではどうだろう。アカウントを失うとそこに投稿した日記や写真も消えることになるから、「過去の自分の死」といえなくもない。けれど、記憶は脳内にもあるし、盆や正月に旧友と会って確かめ合うこともできる。そうやって懐かしい気持ちになれる可能性が残っている時点で、やっぱり過去の思い出は死んでいない。過去の日記や卒業アルバムなんかを捨てるのに近い感じじゃないだろうか。それこそデトックスや断捨離の類いだ。

「縁切り死」は社会で死んでから死ぬ

 ならば一旦、「失踪」という概念を挟んでみるのはどうか。

 現役で使っているSNSアカウントを自ら絶つなら、それはWEB上の失踪とはいえそうだ。たとえば「WEB2.0 失踪装置」や「蒸発.com」というサイト名だったらしっくりくる気がする。そして、失踪という言葉から死を連想することはたやすい。

 2018年にNHKのクローズアップ現代プラスで「縁切り死」という死に方が採り上げられた。

 身元不明の遺体は各都道府県の警察の元に行き着くが、その数は年々増えていて現在までに2万体にも上っている。そのなかには故人が自らの意思で身元不明化したケースが少なくないという。生前からの人間関係を断絶して身元を失ったうえで、誰も知らない人間となって命を終わらせる――それが縁切り死だ。

 番組で作家の平野啓一郎さんが語っていた縁切り死の考察が鋭くていまも印象に残っている。曰く、

その人がどんなに多様で複雑な人生を生きてきたとしても、自殺をしてしまうと、自殺をした人っていうふうに見られてしまう。それまでの彼の言動とかが、すべて自殺の予兆のように結びつけられてアイデンティティを整理されてしまうところがあって。最期は自殺した人として記憶に残るのではなくて、良かった関係のまま、その人の心の中に残りたいっていう気持ちもあるのではないか

社会死を死とするならば「ネット自殺」も…?

 周囲に認知されてきた社会的存在としての自分は失踪をもって終わりにし、その後に生物としての自分を終わらせる。縁切り死は2段階の自殺を経ているわけだ。社会死→生物死という流れ。

 この一段階目も自殺といえるのなら、SNSアカウントの抹消も死の延長線上に捉えることができるかもしれない。

 ただ、やっぱり引っかかるのは、二段階目の生物死とは関連性が見いだせないところだ。社会死しても、過去に連なる記憶がある限り、自分自身は生きている。世間に死んだと思わせることができても自分自身は死なない。だから、WEB2.0 suicide Machineのロゴにある首吊りロープや、Seppukoo.comがちりばめている武士の切腹図などが薄っぺらく映る。確かに死に絡められるけれど、肉体側ではないだろう、と。

 結論。SNSアカウントを失うことはやっぱり本来的な「死」ではない。けれど、多少のつながりはある。

※初出:『デジモノステーション 2019年10月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.41)

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