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振り向けば「毒息子」


「今すぐこちらに来られませんか?」

救急隊員「息子さんの携帯電話ですか?」
私「はい、そうです」
救急隊員「川崎市消防局の者ですが、お母さんが倒れられて、いま救急車にいます」
私「ヘルパーさんから電話で聞いています。お世話になります」
救急隊員「それで、搬送先の病院を決めなければならないので、今すぐこちらに来られませんか?」
私「へ、今すぐですか? 無理です」
救急隊員「え・・・。いや、無理といっても、ご家族に来ていただかないと、搬送先で入院手続きがとれないんですよ」

 母の住まいから自転車で20分程度の距離にある自宅で、上のようなやりとりをしたのは数日前の昼だった。夜には妻が刊行した『毒母は連載する』の出版記念イベントが控えていたが、夕方までの数時間なら母の元に向かうことも可能だ。それでも私は救急隊員さんの要請に応えなかった。

私「そう言われても無理ですね。翌日に手続きに出向くので、入院先が決まりましたら教えてください」
救急隊員「いや、ご家族に来ていただけないと受け入れてくれない病院が多くてですね・・・」

 何度か押し問答したら救急隊員さんが折れてくれた。最終的に母のかかりつけとなっている総合病院に入院することができ、私は翌日に入院手続きに向かった。医師の説明では、尿管感染症に罹って全身の発熱と倦怠感から下半身に力が入らなくなっている可能性が高いという。自宅で身動きがとれなくなっていたところをヘルパーさんが発見し、救急車搬送ということになったようだ。

 おおよそ予想どおりの状況だった。そして、医師や看護師、病院スタッフの対応も丁寧でホッとしたのを覚えている。少なくとも、「母が倒れて入院となったのに、いの一番に駆けつける誠意を見せなかった息子」を責める視線は一切感じなかった。ありがたい。

「毒私」な母

 救急隊員さんの立場だと、入院までのタスクを効率的に完了するために最善を尽くしたのは分かる。だから隊員さんを責める気はさらさらないのだけれど、「子供なら何を差し置いても親の非常事態に駆けつけろ」という社会に無意識にはびこる圧力には絶対に屈したくなかった。

 それをやると自分が「毒息子」になってしまいそうだから。

 妻のイベントを見て改めて思ったけれど、私にとっての母はいわゆる「毒母」や「毒親」の部類ではなかったと思う。適度に私に自由を与えてくれたし、過度な放置もされていない。十数年前に亡くなった父もしかりだ。どちらも一人好きというか、他人と長めの距離をとるタイプの人間だったし、共働きのために共に過ごす時間が控えめだったこともあって、親子関係はかなり淡々としていたけれど。

 だから私自身に母との関係性を積極的に絶ちたいという気持ちはなくて、何かあったら面倒を見るつもりではいる。ただし、「面倒を見るつもり」の範囲は年々小さくなっている。いまは必要最低限の行政サービスと医療サービスにアクセスするための手助けをするという程度に意識的に留めている。

 なぜかといえば、こちらの最善と母の最善がかみ合わないからだ。というより、母には最善の手を打つという発想がない。

 母は「毒私」とでも言おうか、セルフネグレクトの傾向があり、年を重ねるに従ってその度合いを深めているように映る。仕事は父が亡くなる随分前に辞めているが、その後も新たな趣味や生きがいを見つけるそぶりを見せたことは一度もなかった。元々友人は作らないタイプだったらしく、周囲から遊びに誘われることもない。父を失ってからも特に何もせず、淡々とひとりで暮らしてきた。

 一応健康に暮らしたいという気持ちは持っているようだが、腰痛や歯痛などを理由に自宅にこもりがちになり、治療もろくに受けないで数年過ごしたりしている。健康診断なども「悪い結果が出たら嫌だから」と受けない。それでいて、「まさかこんなに動けなくなるなんて」なんて平気で話したりする。その結果、腰痛や歯痛だけでなく、視力と聴力もかなり衰え、もはや一人暮らしが不可能だと思えるくらいに身体の状態が悪化している。まだ80前なのに。

暖簾に腕押しは「毒」を生む

 そんな母の暮らしを少しでも潤そうと、姉と協力しあって地域のサークルやボランティアの情報を集めたり、娘の小学校のイベントに誘ったり、暮らしのサポートを受けられるようにケアマネさんやヘルパーさんにつないだりと、色々と手助けしてきた。けれど、その大半を「面倒だから」「何か嫌だから」と一顧だにせず捨てられた。

 だから悲惨な母の現状を目の当たりにするたび、私の脳内には「だから言わんこっちゃない」という文字がものすごい大きさで現れる。

 けれど、母からすれば望まない備えに付き合わされてありがた迷惑なだけなのだろう。別に趣味も友人もいらないし、マイペースで暮らせればそれでいい。身体には様々なガタがきているけれど、その現実を見ないで刹那をやりすごしているんだから放っておいてほしい――と。

 結果、私たちは無駄に疲れ、母も無駄に疲れる。

 いつしか、母と話すとき10分もすれば怒鳴っている自分がいることに気づいた。先々のためにどう考えても必要なことだからと色々と話しているのにどうにも通じない。度しがたい。全人類のなかで、この人にだけは高圧的に話す自分が抑えられなくなる。口から出るのは私なりの正論だけれど、母からすればただの罵詈雑言と変わらないのだろう。それでも私はやめられない。将来母がどうなろうが受け止めると言えるほどの経済的、身体的な余裕を維持する自信がないからだ。

 そしてある日、これは典型的なロジハラだと気づいた。支配する側がされる側に過度なストレスを与え続けると、深刻に不健康な精神状態に陥らせてしまう。毒親や毒母の「毒」はそういうことだと思う。いまの関係性を続けると、私は「毒息子」となって母を苦しめてしまう。もうそうなっているのかもしれない。

 この10年間、母に対してずっと暖簾に腕押しを繰り返してきた。暖簾に腕押しの反復は単に無駄な行為というだけでなくて、徒労感がストレスを生み、人間関係を軋ませる。

 そこに気づいていたからこそ、普段の予定を差し置いて母が乗る救急車に駆けつけるという、多大な負荷のかかる行為はしたくなかった。自分の中に「これだけのことをしてやった」という思いが強まると、期待値と現実値のズレが「毒」を生むから。

 自分が毒を与える立場になんてなりたくないし、母を無駄に苦しめることも望まない。それでも救急車に駆けつけるという社会一般の良識を優先したら、自分のなかに毒が生じるのは明白だった。だから救急隊員さんには悪いが、つれない態度を貫いた。

 仮にもっと自分に余裕があったとしても、母は際限なく頼る悪癖がある。共依存に突入するだけなので、ここで線引きすることにいまは躊躇いがない。けれど、そのあたりに理解のない周囲に一線を越えた要請をされると、どうしても毛が逆立ってしまう。

 翌日に入院手続きで病院に行ったとき、医師の説明と前後して、車椅子に乗せられた母とも30分ほど話した。母は相変わらずだったが、自分の中に「これだけのことをしてやった」がないので、ずっと平常心でいられた。院内の誰からも咎められなかったことも、やはり大きかったと思う。

「子が親の面倒を見る美風を大事にしたい」

 今月の日経新聞の「私の履歴書」では元財務次官の武藤敏郎さんが半生を振り返っているけど、そこにこんな一節があった。

 自民党の亀井静香政調会長は、介護保険のスタートを目前に「子が親の面倒を見る美風を大事にしたい」と家族介護への現金給与を求められた。私は介護を社会化する新制度にそぐわないと反論した。

2024年1月20日/日経新聞「私の履歴書」(19)

 介護保険がスタートしたのは2000年。四半世紀近く経つのに、いまもこの「美風」はときに圧力を伴って吹いている。日本は核家族が主流になって久しく、古き良きサザエさん一家なんて幻想に近くなっている。連絡がとれる家族がいるなら、その家族の同意書や連帯保証を求めることが当たり前という美しくない風はいい加減謹んでほしい。救急隊員さんは悪くない。


 仕事以外でまとまった文章を書きたくなることが年に数回ある。ここ数年はその衝動が母絡みであることに今更ながら気づいたり。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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