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ネットが自分なりの死生観が語れないほど窮屈になったら嫌だなという懸念

 インターネットではここ10年くらい「放置」から「干渉」の流れが続いている印象がある。2020年6月時点でもそう感じるけれど、コラムのバックナンバーを整理していて、3年前もいまと同じようなことを懸念していたことを思い出した。

宗教不問で患者と寄り添う臨床チャプレン

 終末期医療の現場で患者に寄り添う宗教者のことを臨床チャプレンという。キリスト教圏では一般化しており、修道服を着た人が病院内を歩く姿は珍しくない。家族にも話せない死への恐怖をケアする専門家として広く認知されている。実は日本でも30年以上前から活動していて、現在もじわじわと普及しているところだ。宗派宗教問わず、多くの宗教家が活動している。

 まともな臨床チャプレンは、患者の信仰や死生観に寄り添うので、患者が別の信仰を持っていたり無神論者であったりしても対応できる。患者の考えや疑問に耳を傾けて、患者自身が納得したり安心したりする道筋を探ることに全力を注ぐ。答えを求めているわけでなく、ただ聞いてほしいという場合も、きちんと真意を察して対応してくれる。

 これがもし、空気を読む気がなくて自分の信仰を押しつけるタイプの人間だったらやっかいだろう。死後を信じていない人に天国や地獄の存在前提で話し込んでしまったり、天国への行き方に悩んでいる人に輪廻転生を説いてしまったり。患者そっちのけで家族への勧誘に精を出したりしたら最悪だ。

 インターネットの世界がそんなやっかいな空気に満たされたら嫌だな・・・と、そんな懸念が少しある。

放置から過干渉へ――米ヤフーの例

 最近は翻訳技術の進化により、他言語文化圏の価値観にぐっと触れやすくなってきた。しかし、外部との壁がなくなると、異文化交流が進むだけでなく、他者を拒絶する動きも出てくる。実際、最近は世界中で複数の宗教を信仰する動きと原理主義化の動きが併行していると言われている。

 原理主義的な立場をとるにしても自分で考えているだけなら構わないが、他人の考えにまで干渉してくる場合は面倒くさい。翻って、いまのネットの世界は干渉がトレンドになっていると言えなくもない。

 象徴的なのは米ヤフーだ。

 2005年4月、イラクで殉職した海兵隊兵士の遺族が彼の残したウェブメールの提供を米ヤフーに求めた。同社は、アカウントを相続対象にしないという当時の利用規約に従って、遺族の要望を拒否。後ほど特例措置としてメール内容を保存したCD-Rを提供したものの、メールの内容は第三者に一切公開しないという姿勢を貫いたことで世間の注目を集めた。

 それから10余年。2016年10月に同社は、ユーザーのメール内容が監視できる仕組みを自社開発したことが世間に伝わり、強烈な批判を浴びることになった。NSA(アメリカ国家安全保障局)やFBI(連邦捜査局)の求めに応じて作ったことを認めており、法に則った行為だったと弁明している。そうであったとしても、以前のポリシーを知る人々からの失望の声を止める力はなかったようだ。そして、2017年にはベライゾングループに買収されて、Yahoo!の名前さえも失った。

 放置から管理へ。あるいは干渉、過干渉へ。

 この動きは加速している。

 2016年12月、Facebookはニュースフィードに流れるニュースの真偽を確認する第三者機関を設置したと発表した。ユーザーの通報を受けて精査し、偽ニュースと判定された記事は警告文を添えて表示順位を下げる措置がとられる。偽ニュース対策はかねてから論じられてきたが、同社は「SNSはメディアではない」という立場から積極的な介入を控えてきた。が、世間からの要請に抗いきれなくなった格好だ。

 米Twitterも、同年11月、不適切なツイートの報告項目に「人種、宗教、性別、考え方などを誹謗中傷または差別している」という項目を追加するなど、サービス内自治の強化を図っている。

多様性を保ったままメジャー化するのは難しい

 インターネットの影響力が無視できないほど増しているいま、偽ニュースも誹謗中傷も見過ごしたままでは通らない。こうした動きは必然といえるだろう。ニッチだから、サブカルチャーだからと許されてきたグレーな領域は、日が強く当たるほどに汚れが誤魔化せなくなっていくし、輪郭もぼかせなくなる。

 ただ、こうした動きがまともに機能するには冷静な大人の判断力が欠かせない。喧嘩している片方の話だけを聞いて肩入れしたり、傍観者たる自分の立ち位置をわきまえずに当事者の領域にずけずけと入り込んだりする物言いが幅を利かせるのはよくない。クレームに対して平身低頭謝りすぎる姿勢も広範囲の萎縮を招くから避けるべきだ。クレーム熱に流されず、是々非々で対応する硬派なモラリストが必要だ。でなければ“叩き得”な空気が生まれて、場はどんどん窮屈になる。多様な死生観が表に出ることも望めない。

 臨床チャプレンの品質はその人そのものにかかっている。インターネットも同じだと思う。

※初出:『デジモノステーション 2017年3月号』掲載コラム(インターネット死生観 Vol.10)

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