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日本で、日本語による、日本人の死が拡散するようになった理由を考える

 「閲覧注意」の警告を通すことなく、日本における凄惨な事件現場の写真や動画がSNSで拡散するようになって久しい。それは治安の悪化やモラルの低下を示す現象なのだろうか?

「○○ 飛び降り」「○○ 殺人」で無加工素材にヒット

 世間の元号が令和に変わってから間もなく、大阪では大丸ビルの屋上から女性が飛び降り自殺し、名古屋では大勢の往来がある繁華街で連れの男性を男がメッタ刺しにする事件が発生した。

 昔から類似の出来事はしばしば発生しており、新聞やテレビ、ネットニュースを賑わせてきたと思う。しかし、この2例は発生時の生々しい動画と写真が拡散しているという特殊性がついている。

 事件から数週間後。GoogleやYahoo!で「大阪 飛び降り」と検索してヒットした上位から順にいくつかのページを開いたら、警察官の説得を振り切って女性が飛び降り、数10m下に叩きつけられる音までしっかり捉えた映像が再生できてしまった。「名古屋 殺人」も同様だ。周囲の「やめてー!」という声と男の「おら! おら!」という怒号が混ざった異様な光景のなか、地面に横たわり、まさに命の灯火が消えていく男性の様子が群衆の目線で眺められた。

 どちらも偶然現場に居合わせた人がSNSにアップしたもので、死ぬ瞬間で映像を切り上げたり、血が見える周辺をモザイク処理したりする配慮なんてなかった。ライブ映像そのままの動画なんだから当たり前だ。元の動画は視聴したユーザーからの通報などによってすぐに公開停止となったが、それよりも早くコピーされ、様々なサイトに拡散された。

 数ヶ月経ったいまでも上記のようにちょっとの検索で閲覧できる可能性がある。それらが一掃されたあとでも、グロテスクな動画を専門とするまとめサイトにミラー素材が普通に残っていたりする。

 この状況、「世も末」だと思うだろうか?

 私はそうは思わない。

日本語の「死の動画」はここ数年で急増

 自殺の統計なら厚生労働省、殺人を含む犯罪の統計なら法務省のサイトでみられるが、ここ数年に有意に増加しているという変化は見当たらない。自殺関連のNPO法人や医療施設の取材でも矛盾する兆しは察知できなかったし、肌感覚でも日常生活にしても不安感は今までどおりだ。

 けれど、SNS界隈で過激なコンテンツに触れやすくなったとは感じる。海外で海外の人が死んでいくグロテスクな映像は昔からよくあったが、最近は日本人が日本のどこかで死んでいく動画が手の届く範囲に流れてくることが確かに増えた印象がある。映像で登場する言葉や景色に馴染みがあるから印象に残りやすいということもあるが、それ以上に、日本発の動画だから日本人のSNS界隈で流通しやすい事情があるのだろう。だから、日本語圏のSNS環境を中心にしていると、余計に過激な映像が急増したように思えてくる。

 では、なぜ日本発の動画が増えたのか?

 これは推測だけれども、事件が発生している現場において、スマホを掲げて写真や動画を撮る心理的ハードルが急速に下がっているんじゃないかと思う。

 J-PHONEがカメラ付き携帯電話で撮った写真をメール添付する「写メール」というサービスを打ち出したのは2001年。国内にSNSの文化を浸透させたmixiがスタートしたのは2004年。E-Times Technologiesが日本でライブ動画配信プラットフォーム「Stickam JAPAN!」の提供を始めたのが2006年。YouTubeが後のYouTuberにつながる「YouTubeパートナープログラム」を導入したのが2007年。目の前で起きた出来事を手持ちの端末で即座にインターネットに流す土台はこの頃までにできあがったといえる。

 2015年頃になるとFacebookやInstagram、LINEなどメジャーなSNSがライブ配信機能を実装するようなり、現場で撮影する行為のハードルはますます下がった。テレビ放送で視聴者からの提供映像が頻繁に流れるようになったのも自然な成り行きといえるだろう。そしてそれは、非常事態の現場でスマホや携帯電話を掲げる社会的な意義を与えてくれる。「いまカメラを回すのは公共の利につながるかもしれない」という口実を与えてくれる。

世も末感の育成はSNSの得意技かも

 つまるところ、世間に許容される不謹慎レベルがシフトしたという、ただそれだけのことなのだと思う。

 高層ビルの屋上でいまにも飛び降りそうな人がいたとして、
 ①人だかりの一人になって見守る。
 ②スマホを取り出して撮影する。
 ③動画をSNSに流す。

 携帯電話のない時代から①はまあ許容されてきたと思う。②は非難の対象になりうるが、そこまで珍しい行為でなくなっているのも確かだ。「たまにいる不謹慎」くらいの位置で溶け込めるといえば溶け込める。③はいまでも叩かれるリスクが高い行為だが、実況ボイスでも吹き込んでいないかぎり現場で②と判別するのは難しい。淡々と動画を撮影しているくらいだったらやはり溶け込める。

 たぶんそれだけのことであり、世も末でもなんでもないと思う。けれど、これらの動画を見た大勢の人が「世も末だ」と信じ込んだら、本当に世も末な雰囲気ができあがってしまうかもしれない。

 SNSは構造上、自分の耳に心地良い意見が集まりやすく、論理より感情、とくにネガティブな感情が拡散しやすい傾向がある。“世も末感”を広めるのは得意中の得意だ。だからこそ、冷静に受け止めて過剰に反応しない姿勢が重要ではないだろうか。そういう大人な態度をバンバン褒める風潮ができたら良いのになと思ったりする。

※初出:『デジモノステーション 2019年8月号』掲載コラム(インターネット跡を濁さず Vol.39)

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